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アルト・ロペス(Art Lopez、本名:アルトゥーロ・ロペス・ロドリゲス(Arturo López Rodríguez)とは、元プロ野球選手のことである。
概要
OB | |
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アルト・ロペス Art Lopez |
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基本情報 | |
出身地 | プエルトリコ |
生年月日 | 1937年5月8日 |
身長 体重 |
176cm 79kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1961年 |
引退 | 1973年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
ヤンキース傘下のマイナーでプレーした後、1965年にメジャー初昇格。
メジャーでの出場はこのシーズン限りで38試合出場で7安打、打率.143と結果は残せなかった。
1968年、前年5位と不振に喘いでいた東京オリオンズがこの状況を打開すべくヤンキースに交渉を開始。するとヤンキース側から「ロペスなら出してもいい」と返答があり、ロペスの獲得を発表した。
だが、2月のハワイキャンプである事実が判明する。右投げ右打ちと聞いていたはずのロペスが左利き用のグラブを持参し、打席に入る際には左打席に立ったのである。
ここで球団は過ちに気付いた。オリオンズ側はヤンキースのレギュラー格として活躍していた「ヘクター・ロペス」のことだと思い込み契約を結んだのだが、実際には実績も殆どない『別のロペス』、「アルト・ロペス」と契約を結んでいたのだった。
ちなみに、当時アルト・ロペスはヤンキースに在籍してはいたのだが、プエルトリコに帰国し、野球から離れ百貨店で働いていたそうである。
色々と問題だらけの契約ではあったものの、移籍金がわずか1000ドルほどと格安であったことや、オリオンズ側にも落ち度があったことから「ダメだったらすぐにアメリカに帰せばいい」とそのまま入団させた。
だが、開幕してみると良い意味で裏切られることになった。
初年度の1968年は、開幕戦から決勝打を放つなど活躍し、打率289、23本塁打、74打点、10盗塁と大活躍。同年入団のジョージ・アルトマンとともにクリーンナップの一角を担う。
1970年には打率.313、69打点、21本塁打をマークしチームのリーグ制覇にも貢献した。
1971年にも打率.301、77打点、24本塁打と前年同様活躍を見せた。だが、シーズンオフに大沢啓二監督やフロントは若返り方針を打ち出しヤクルトアトムズへトレードに出される。
4年に渡りクリーンナップとして活躍したにもかかわらずあっさりとトレードに出されたロペスは、トレードを告げられた際に、大沢に対し「ハートが冷たいよ」と日本語で話しチームを去った。
ヤクルトに移籍後、ロペスは肉体的な衰えに加え東京球場より広い神宮球場での戦い方に苦戦。攻守に渡りミスが目立ち、1973年シーズン限りで退団。
ヤクルト退団後はプエルトリコに帰国。現在はアメリカで暮らしていると言われている。
人物・エピソード
勝負強い打撃でジョージ・アルトマンとともにオリオンズのクリーンナップとして活躍した中距離打者。
非常に明るく陽気な人物としても知られ、オリオンズの本拠地の東京球場が下町付近にあったことから「下町の太陽」と呼ばれ、ファンから親しまれた。
オールスターゲーム初回先頭打者初球本塁打を放った史上初の選手でもある。ちなみにこのとき何故か南海のヘルメットを被って打席に立っている。また、この試合は江藤慎一のサヨナラ本塁打で決着しており、初球と最後の球がともに本塁打という非常に珍しい結果となっている。
通算成績
打撃成績
通算:6年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB:6年 | 366 | 1501 | 1356 | 171 | 371 | 15 | 86 | 13 | 33 | 6 | 102 | 4 | 104 | 15 | .274 | .325 |
記録
関連項目
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