ピエルルイジ・マルティニ(Pierluigi Martini, 1961年4月23日 - )とは、イタリア出身の元F1ドライバーのことである。
経歴
F1デビュー以前
叔父のジャンカルロ・マルティニはヨーロッパ・F2選手権などで活躍し、非公認のレースながらF1カーのドライブ経験があるというレースに縁のある環境であり、弟のオリバーとともに自然とレースの世界に入っていった。
イタリアの若手ドライバーの登竜門、フォーミュラ・フィアット・アバルトでチャンピオンを獲得した後、1981年からイタリアF3選手権へステップアップ。1983年にチャンピオンを獲得すると、叔父の友人であるジャンカルロ・ミナルディが代表を務めるF2のミナルディと契約。
F1参戦後
1984年、第14戦イタリアGPでアイルトン・セナの出場停止、ジョニー・チェコットの負傷によりシートの空いたトールマンからスポット参戦しF1デビューするも予備予選落ち。
1985年、この年F1に参戦を開始したミナルディのレギュラードライバーとして参戦。チームは参戦初年度でありノウハウが無くスピード・信頼性ともに欠くマシンということもありテールエンダーが定位置。マルティニは3度完走するので精一杯であった。
1986年、資金力の無いミナルディは高額の用意できるアンドレア・デ・チェザリスを起用、マルティニは国際F3000で戦うことになった。
国際F3000では、1986年に3勝をあげランキング2位、1987年はランキング11位と成績を落とす。
1988年は1勝をあげランキング4位。この年ミナルディのレギュラードライバーであったエイドリアン・カンポスが3戦連続で予備予選落ちと精彩を欠き契約を解除。マルティニは再びミナルディのシートを獲得した。
F1復帰となる第6戦デトロイトGPは完走9台という壮絶なサバイバルレースとなり、見事に6位に入賞。これがマルティニにとってもミナルディにとっても初のポイント獲得となった。その後も後方での戦いとなったものの信頼性の低いマシンで10戦中5戦で完走させてみせた。
1989年、開幕からリタイアが続き第8戦イギリスGPでポイントを獲得できなかれば予備予選組に落とされる崖っぷち状態であったが、マルティニは5位入賞、更に同僚のルイス・ペレス=サラも6位に入賞しミナルディはダブル入賞を果たしチームを救った。第13戦ポルトガルGPでは5位入賞、最終戦オーストリアGPでは予選3位、決勝6位と力を示した。
1990年、開幕アメリカGPで予選2位に入り、自身・チームにとって最初で最後フロントローを獲得(決勝は惜しくも7位)。しかし、この年は予選では速さを見せるものの、リタイヤも多く全16戦で8回リタイアするなどマシンの信頼性の低さに泣かされ、3年ぶりにノーポイントに終わってしまう。
1991年、まさかのフェラーリエンジンを搭載しマシンのスピードが向上。完走わずか11台とサバイバルレースとなった第3戦サンマリノGPでは、自身・チームにとって最高位となる4位に入賞。更に第13戦ポルトガルGPでも4位に食い込み、第15戦日本GP予選ではベネトン勢を上回る走りを見せ、決勝ではリタイアするまで入賞圏内で走行するなど健闘した。
1992年はスクーデリア・イタリアに移籍。序盤の第4戦スペインGP、第5戦サンマリノGPでともに6位に連続入賞を果たしたものの、そこからは右肩下がりで入賞無し。この年チームが獲得ポイントは全てマルティニが獲得したものであった。シーズン後スクーデリア・イタリアはミケーレ・アルボレートとルカ・バドエルを起用することを発表し、マルティニはシートを喪失してしまった。
1993年は浪人状態でシーズンスタート。シーズン中盤、ミナルディのファブリツィオ・バルバッツァがスポンサーからの資金振り込みが滞り解雇され、マルティニに声がかかった。第9戦イギリスGPから最終戦まで参戦し、第11戦ハンガリーGPでは予選7位(決勝はリアイア)、第13戦イタリアGP決勝で7位とノーポイントに終わったものの存在感は示し翌年のレギュラーシートを獲得。
1994年、スクーデリア・イタリアとミナルディが合併し迎えたシーズン、リタイアこそ7度と多かったものの、第5戦スペインGPで5位入賞、第7戦フランスGPでも5位入賞と2度入賞を記録。
1995年、まずまずの走りを見せ入賞に一歩届かない決勝7位を2度記録していたが、第9戦ドイツGP後に多額の持参金を持ち込んだペドロ・ラミーにシートを譲りミナルディを去った。
以降はF1を引退し、GT選手権やALTM(アメリカン・ル・マン・シリーズ)、ル・マン24時間耐久レースなどに参戦し、1999年のル・マン24時間耐久レースで優勝している。
人物・エピソード
- F1では全124戦中107戦がミナルディからエントリーし、キャリアの大半をミナルディで過ごしたことから「ミスター・ミナルディ」と呼ばれている。
- 決して速いと言えないマシンでも粘り強く走り入賞圏付近で戦える速さを持ち、フェラーリのレギュラー候補に挙げられたこともある。
- 出走した119戦で一度も表彰台獲得がなく、これは2014年にエイドリアン・スーティルに更新されるまで、表彰台未登壇ドライバーの最多出走記録であった。
- 陽気な性格で笑顔でいることが多く、交流関係も広かったと言われている。
- ルックスがアラン・プロストに似ていたことから「プチ・プロスト」と呼ばれたこともある。
- プロフィールでは身長165cmであるが、実際はもう少し小さかったと言われている。
- 合同テストの際には、マシンのドライブだけでなくトランスポーターの運転も引き受けていた。
- 憧れのドライバーはロニー・ピーターソンで、ヘルメットの黄色はピーターソンのカラーを踏襲したもの。
- 趣味はクラシックカー収集であり、六輪で有名なF1マシン「ティレル P34」を所有している。
関連動画
関連静画
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関連項目
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