レオン・ミンクス / ルードヴィヒ・ミンクス(1826~1917)とは、19世紀を代表するバレエ作曲家である(逆にバレエをたしなまない人にはいささか知名度が…)。
概要
オーストリア帝国のウィーン出身で厳密にはルードヴィヒ・ミンクスの方が本来の名前である。両親は父親がモラヴィア、母親がハンガリー出身のユダヤ系だったが結婚する以前にカトリックに改宗している。彼らはワインの卸売業者だったが、ミンクスは4歳のころからヴァイオリンの個人レッスンを受け、早くから音楽に触れていた。
「楽友の社会」で1838年から1842年まで音楽学をおさめる一方、彼は8歳でソリストとしてデビューし、神童と称賛されたのである。そのため彼は自分のための曲を作っていくが、1842年から1852年までの彼の足跡をたどることはやや難しい(このころからすでにバレエ音楽に手を出してはいるようだが)。
1852年に彼は一度は在籍したウィーン宮廷歌劇場の主席ヴァイオリニストの地位を蹴り、なんとロシアのサンクトペテルブルクに移り、ニコライ・ユスポフ公の個人的なオーケストラの指揮者になったのであった(そのためロシア語表記でレオン・ミンクスである)。そのままロシアで結婚する一方、1856年からはボリショイ劇場の主席ヴァイオリニストを、さらにイタリアオペラの指揮者も任されることになった。1861年にはコンサートマスターに選ばれ、1864年には管弦楽団のインスペクターにまで上り詰める。おまけにモスクワ音楽院ではヴァイオリンの教授になるなど順風満帆な生活を過ごしていった。
さらに彼の転機となったのがアーサー・サン=レオンとの協業である。彼は当時高名なメートル・ド・バレエで、1860年代初めからモスクワのバレエ団のための作品を作っていたのである。ミンクスとサン=レオンは60年代を通して毎年のように楽曲を発表し、その評判も高いものであった。こうして、バレエ作曲家として名声を博したミンクスであったが、さらに振付師マリウス・プティパとの出会いが彼をより高みへといざなった。サン=レオン、プティパとの出会いが彼の「ドン・キホーテ」、「ラ・バヤデール」、「パキータ」といった代表作の誕生につながっていったのである。また、ロシアにとどまらず、フランスでもレオ・ドリーブとの合作で「泉」を作っている。
しかし1886年、ミンクスとの契約が満了になるタイミングで、劇場はマンネリ防止のため彼との契約を更新しなかった。こうしてミンクスは引退し1891年にふたたびウィーンに戻った。そしてそのままそこで晩年を過ごし1917年に亡くなったのである。
第2次大戦時ナチスドイツによって彼の墓が荒らされたのは順風満帆だった彼の生涯の最後に咲いた仇花かもしれない。
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