久世広之(1609~1679)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
概要
徳川譜代久世氏の三男坊として生まれる。ところが久世広之の父親・久世広宣は、徳川家康から大須賀康高を経て大須賀松平氏の松平忠政に仕えたものの、忠政の死後にその子である松平忠次家中で専横を働き、家康にいったん蟄居させられ、大坂の陣での戦功のため旗本に再登用、されたという経歴の人物であった。
さらに長兄の久世広当も伊賀三十六番斬りに関係して蟄居させられ、血の気の多い人物であったようだ。
こうして久世広之は元和3年(1617年)に徳川秀忠に謁見。元和8年(1622年)に秀忠の小姓に、寛永元年(1624年)には徳川家光の小姓となって、出世コースに乗り始める。
寛永13年(1636年)には従五位下・大和守に任じられ、寛永15年(1638年)には小姓組番頭となる。慶安元年(1648年)には一万石の大名となるが、まだ城は持ってはいなかった。
かくしてかつての松平信綱、阿部忠秋といった人物と同様側近から幕閣に参画し、承応2年(1653年)には土屋数直とともに徳川家綱の傅役に任じられる。寛文3年(1663年)に老中、従四位下に任じられると、寛文4年(1664年)には4万石、寛文9年(1669年)には5万石となり、下総国関宿城主となったのであった。
なお、彼の経歴には特段変わったことはない。酒井忠清政権下という転換期にひたすら地味に仕事をこなしていった、そんな人物であった。
関連項目
- 0
- 0pt