定岡智秋単語

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定岡智秋(さだおちあき)とは、元プロ野球選手である。

概要

1953年6月17日生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。3兄弟長男として育ち、中学時代から本格的に野球を始める。定岡正二、定久らとともに「定3兄弟」として地元でも有名な野球兄弟であった。中学時代には後に西武ライオンズで活躍する永射保とともにプレーしていた。

鹿児島実業高等学校に進学。入学時はサード投手を兼任していたが、走り込み練習を苦痛に感じたことからサードに専念。3年には県大会決勝まで駒を進めたが敗退し、甲子園大会出場はわなかった。

1971年ドラフト会議にて、南海ホークスから3位名を受け入団。同期には柏原純一がいた。

入団から2年間は一軍出場なしに終わる。

1974年9月に初めて一軍昇格を果たすと即日スタメン出場し、石井茂雄から本塁打を放って初安打初本塁打記録。同年は15試合に出場して打率.270、2本塁打、6打点記録

1975年シーズン途中からショートレギュラーに定着し、97試合に出場。固い守備で活躍したが、打率は.189プロの攻めに苦戦。オールスターゲームに初出場を果たし、同年から1977年まで3年連続で出場している。

1976年以降は開幕からショートレギュラーの座を守り、1978年からは河埜敬幸コンビを組み、兄弟選手による二遊間は鉄壁の守備を誇った。

1979年打率.249、11本塁打、41打点と課題であった打撃面を善すると、翌1980年には初めて規定打席に到達し、打率.241、13本塁打、42打点記録

1983年、全試合に出場し、打率.257、9本塁打、47打点記録

1984年、開幕から好調を維持し、一時本塁打王争いに絡む活躍を見せたが、5月半ばの西武ライオンズ戦でアキレス腱を断裂。以降、本来の持ち味を発揮できなくなってしまい、1987年、現役引退

引退後も南海ダイエーに残り、コーチフロント要職を歴任。

2008年には高知ファイティングドッグス監督に就任し、2013年まで務めた。

高知退団後は九州総合スポーツカレッジのコーチ高等学校監督を務めた。

2020年からは高知ヘッドコーチとして復帰している。

人物・エピソード

球界屈の強肩を生かした鉄壁の守備で活躍した守備の名手。打撃面では不安を抱えていたが、全盛期には二桁本塁打を放つなど成長を見せていた。

肩の強さではにも負けない自信があったとり、オールスターゲーム前のイベントとして行われた遠投大会では、並み居る強肩選手たちを差し置いて圧勝している。定送球は「低く鋭く正確」というのが特徴であった。

息子の定卓摩も福岡ダイエーホークスから名されプロ野球選手としてプレーした。ちなみに福岡ダイエーホークス名した最後の選手でもある。現在引退して、横浜DeNAベイスターズスタッフとして勤務している。

通算成績

打撃成績

通算:14年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1216 3739 3386 340 785 88 370 27 92 27 206 28 689 102 .232 .279

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