- プロ野球選手一覧 > 定岡智秋
概要
高知ファイティングドッグス #82 ヘッドコーチ |
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定岡智秋 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県国東市 |
生年月日 | 1953年6月17日 |
身長 体重 |
183cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト3位 |
引退 | 1987年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
野球選手テンプレート |
1953年6月17日生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。3兄弟の長男として育ち、中学時代から本格的に野球を始める。弟の定岡正二、定岡徹久らとともに「定岡3兄弟」として地元でも有名な野球兄弟であった。中学時代には後に西武ライオンズで活躍する永射保とともにプレーしていた。
鹿児島実業高等学校に進学。入学時はサードと投手を兼任していたが、走り込み練習を苦痛に感じたことからサードに専念。3年夏には県大会決勝まで駒を進めたが敗退し、甲子園大会出場は叶わなかった。
1971年ドラフト会議にて、南海ホークスから3位指名を受け入団。同期には柏原純一がいた。
入団から2年間は一軍出場なしに終わる。
1974年、9月に初めて一軍昇格を果たすと即日スタメン出場し、石井茂雄から本塁打を放って初安打初本塁打を記録。同年は15試合に出場して打率.270、2本塁打、6打点を記録。
1975年、シーズン途中からショートのレギュラーに定着し、97試合に出場。固い守備で活躍したが、打率は.189とプロの攻めに苦戦。オールスターゲームに初出場を果たし、同年から1977年まで3年連続で出場している。
1976年以降は開幕からショートのレギュラーの座を守り、1978年からは河埜敬幸とコンビを組み、兄弟選手による二遊間は鉄壁の守備を誇った。
1979年、打率.249、11本塁打、41打点と課題であった打撃面を改善すると、翌1980年には初めて規定打席に到達し、打率.241、13本塁打、42打点を記録。
1983年、全試合に出場し、打率.257、9本塁打、47打点を記録。
1984年、開幕から好調を維持し、一時本塁打王争いに絡む活躍を見せたが、5月半ばの西武ライオンズ戦でアキレス腱を断裂。以降、本来の持ち味を発揮できなくなってしまい、1987年、現役引退。
2008年には高知ファイティングドッグスの監督に就任し、2013年まで務めた。
高知退団後は九州総合スポーツカレッジのコーチや柳ヶ浦高等学校の監督を務めた。
人物・エピソード
球界屈指の強肩を生かした鉄壁の守備で活躍した守備の名手。打撃面では不安を抱えていたが、全盛期には二桁本塁打を放つなど成長を見せていた。
肩の強さでは誰にも負けない自信があったと語り、オールスターゲーム前のイベントとして行われた遠投大会では、並み居る強肩選手たちを差し置いて圧勝している。定岡の送球は「低く鋭く正確」というのが特徴であった。
息子の定岡卓摩も福岡ダイエーホークスから指名されプロ野球選手としてプレーした。ちなみに福岡ダイエーホークスが指名した最後の選手でもある。現在は引退して、横浜DeNAベイスターズのスタッフとして勤務している。
通算成績
打撃成績
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1216 | 3739 | 3386 | 340 | 785 | 88 | 370 | 27 | 92 | 27 | 206 | 28 | 689 | 102 | .232 | .279 |
関連項目
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