慈愛丸単語

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慈愛丸とは、昭和初期の時代に日本で運用されていた病院である。

概要

財団法人大阪毎日新聞慈善団」(略称、大毎慈善団。当時の表記では「団」は旧字の「」)が行っていた慈善事業としての、巡回無料診療に使用されていた病院大阪河川上を利用して移動し、大阪各地で傷病者の診療を行っていた。

病院」と言えば、各海軍上で、戦時や災害時に運用するものがよく知られている。しかしこの「慈愛丸」は、民間団体により河川上で、時に運用されていたものである。

大阪毎日新聞慈善団はこの「慈愛丸」以前にも大正10年(1921年)から木造毎日丸」を運用しており、非常に多くの患者の診療を行っていた。その後継として、昭和2年1927年)に大の鋼である本が新造された。

建造は大阪市港区南福崎にあった「占部造所」において行われた。建造に際して占部造所は営利を離れて協したとのこと。使用した大量の鋼八幡製鉄所から払い下げの便宜を得たという。建造費用は28398円(ただし資料により異なる)で、昭和天皇御成婚記念の恩賜財団「慶福会」から1000円の補助を得たという。

以前から「内科」「外科」「眼科」の診療を行っていたが、本新造後は内部が拡したために新たに「咽喉科」「小児科」が追加され、そして後に「レントゲン科」も加わった。その他、薬局なども内に存在していた。一日二名程度の患者を受け入れることが出来たという。

昭和3年1928年)の取り扱い患者の実人数は10315人、延人数は43333人であったという。また昭和5年1930年)度での取り扱い患者総数は実人数2948人、延人数11934人だったという。

困窮者が方面委員(現代の「民生委員」の前身)や警察署から診察券の交付を受けてから来訪すると、内で無料診療を受けることができた。なお、上記の昭和3年の患者人数調における人数は全て「外来 無料」の欄に記載されており、「外来 有料」の欄は「―」つまり取り消し線となっている。つまり「有料診療も無料診療も行っていて、困窮者は無料診療も受けることができた」と言うわけではなく、無料診療しか行っていなかったのかもしれない。また「入院」の欄が存在しないため入院施設は存在しない、すなわち「病院」ではなく「診療所」であったものかと思われる。

昭和9年1934年9月21日に発生した大阪市関西、室戸台風)の際には、被災者の救護活動を行っている。

昭和13年1938年)まで運用が継続されたが、鋼であったために戦時体制への移行に伴って金属供出の対となり、失われたとされる。

「慈愛丸」の名称は、当時の大阪毎日新聞社の社長にして大阪毎日新聞慈善団の理事長であった「本山一」の夫人の命名によるものであるとのこと。

諸元

150トン、長さ110フィート(約33.5メートル)、幅18フィート6インチ(約5.6メートル)、深4フィート6インチ(約1.4メートル)、喫2フィート3インチ(約0.7メートル)、高さ面上8フィート6インチ(約2.6メートル)。

高さは、大阪河川の上に架かるの下を通れるように抑えられていた。しかし甲上周囲の側を立てて幕張りの屋根をかけることで、甲を数人を収容できる大広間に変えることもできたという。

当時の「慈愛丸」を扱った絵葉書には、「病院慈愛丸附属モータボート「はと」」とキャプションが付いた写真を付しているものもある。「慈愛丸」への患者の送迎などを行っていたものか。

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