米川泰夫単語

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米川泰夫(よねかわ やすお)とは、元プロ野球選手である。

概要

1927年12月17日生まれ。大阪府大阪市出身。

商業学校卒業後、松山海軍航空隊に入隊。

復員後、立命館大学入学エースとして活躍し、1948年1949年リーグ戦で優勝

1949年7月東急フライヤーズに入団。初年度は15試合に登板し3勝2敗、防御率3.43という成績であった。

1950年チームエースとなり、23勝23敗、防御率3.24をマーク。57試合登板207奪三振投球回363回2/3、完投数27はいずれもパ・リーグ最多であった。

1951年、2年連続となるリーグ最多投球回数の294回2/3を投げ、19勝12敗、防御率2.35(パ・リーグ5位)をマークオールスターゲームに出場した他、日米野球にも出場し、日本日米野球勝利に貢献している。

1952年は故障ので1勝に終わったが、1953年には復活し、16勝21敗、防御率2.76、パ・リーグ最多の180奪三振記録

1954年には23勝14敗と大きく勝ち越したほか、10月10日近鉄パールス戦ではパ・リーグ記録となる22回、264球を投じている。

1955年も22勝を挙げたが、1956年は10勝21敗と大きく負け越し、以降は1957年9勝、1958年5勝と徐々に勝ちを減らしてしまう。

1958年オフに10年選手制度を利用し、西鉄ライオンズへ移籍。

西鉄では中継ぎ投手として起用されたが、場以降打ち込まれる場面が増え、1勝5敗、防御率5.20と精を欠き、同年限りで現役を引退した。

引退後は、時折解説者を務める程度で基本的には野球界から離れ、建設業や飲食店経営、アパレル企業に就職するなど様々な業界で働いた。

1975年には太平洋クラブライオンズの選手兼任監督に就任した江藤慎一とかねてから交流のあったこともあり、同球団の一軍投手コーチを務めチームのAクラス入りに貢献したが、江藤が退団したこともあり同年限りでも退団した。

人物・エピソード

のある速球と落差の大きい独自の変化球ヨネボール武器奪三振を量産した東急東映エースパ・リーグ記録の1試合22イニング・264球をはじめ、シーズン最多投球回3回という尽蔵のスタミナも長所であった。

沢村栄治を彷彿とさせる足を高く上げる投球フォームも特徴的のひとつ。

野球殿堂博物館には1958年に着用した東映ユニフォームが資料として保管・展示されている。

通算成績

投手成績

通算:11年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 403 139 18 132 142 --- --- .482 2274.1 536 1346 898 711 2.81

獲得タイトル・記録

関連項目

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