イスタブラク(Istabraq)とは、1992年アイルランド産まれ、イギリス→アイルランド調教の競走馬(牡馬→障害移籍後に騸馬)である。
近年を代表するハードルのスターホースであり、エイダン・オブライエン調教師の飛躍となった馬。
概要
父Sadler's Well(サドラーズウェルズ)、母Betty's Secret(ベティズシークレット)、母父Secretariat(セクレタリアト)という血統。
父サドラーズウェルズは欧州ないし世界を代表する大種牡馬。母ベティズシークレットの4代母ブードワールは世界的名牝であり、子孫に米二冠馬のマジェスティックプリンスとリアルクワイエットや、ダイワメジャー・ダイワスカーレット兄妹の母となったスカーレットブーケなど、名馬がズラリといる。
母父セクレタリアトは説明不要のアメリカ三冠馬であり、種牡馬としてはブルードメアサイアー(母父)としての活躍が顕著であった。
更に半兄にも英ダービー馬*セクレトがいるため、超が付くほどの良血馬と言って差し支えないだろう。
その期待に応えるべく、イギリスの名門ジョン・ゴスデン調教師の下へ入厩し、アラビア語で「稲妻」を意味するイスタブラクと名付けられた。
……まぁレッドラム然りオジュウチョウサン然り、著名な障害馬の殆どに該当するケースだが、この馬も平地の競走は全ッ然ダメで、2歳時は1戦して8着、3歳になっても中々勝てず、5戦目でようやく初勝利を挙げたが既に7月。
結局9戦2勝の成績で3歳を終え、4歳の初戦で2着に敗れると、イスタブラクは売却に出されることとなった。
名トレーナーとの出会い
ジョン・ゴスデン調教師の調教助手として働いていたジョン・ダーカンという男がいた。
ゴスデン調教師の元から独立して厩舎を開業しようと考えていた彼は、イスタブラクに目を付ける。
曰く、イスタブラクはハードル障害向きの素質があり、イギリスの障害の祭典の一つ「チェルトナムフェスティバル」の大レースにも勝てる器であると睨んでいた。
やがてイスタブラクがセリに出されると聞いたダーカン氏は、アイルランドの有力馬主ジョン・パトリック・マクマナス氏に働きかけてこれを落札。無事に購入されるとイスタブラクは去勢され、厩舎を開業したダーカン氏の下で障害の訓練を始めることとなった。
ところが思いもよらぬことが起こる。
ダーカン氏が急性骨髄性白血病という病に侵されてしまったのである。
そこでダーカン氏は、病気が治るまでの間、友人であるエイダン・パトリック・オブライエン調教師にイスタブラクを預けることとした。
……そう、競馬に詳しい人なら誰でも知ってるあのエイダン・オブライエン調教師である。実は彼は当初、障害の名トレーナーとして実績を積み重ねていており、1993年~98年までの間アイルランドの5年連続障害のリーディングトレーナーに輝いていたのだ。
イスタブラクはオブライエン調教師の下で調教を再開し、やがて秘められた障害の才能を開花させていくこととなる。
96/97:ハードルデビュー~快進撃
4歳11月になって障害デビュー。初戦は抑え気味に走り、最終障害を飛び越えたところで先頭に立つが、ゴール前に差されて2着。
それでも相手はG1馬だしレース内容としては十分として次走でG1レースに出走すると、前走負けた馬達を差し置いて1番人気に支持され、2着に1馬身差を着けて優勝。障害初勝利をG1制覇で飾ることとなった。
その後も2連勝を重ねてイギリスの障害競馬の祭典であるチェルトナムフェスティバルに参戦し、ダーカン氏が勝てると見込んだG1・ロイヤル&サンアライアンスノービスハードル(21ハロン・約4224m)に満を持して出走した。
ところがイスタブラクはこのレース前に多量の発汗をするなど激しくイレ込んでしまう。元々神経質な馬で、今までは特に問題はなかったが、輸送による環境の変化と大勢の観客に初めて戸惑ってしまったのだ。
何とか出走態勢を整えてレースに出走すると後方からレースを進め、途中の障害で他の馬と接触してバランスを崩すシーンがあったものの、チャーリー・スワン騎手の手綱捌きもあり、最後の叩き合いを制して2着に1馬身差を着け優勝。
ニューヨークで闘病をしていたダーカン氏の下に馬主・オブライエン調教師・スワン騎手らの声にならない大歓声が電話で届き、ダーカン氏は翌日に骨髄移植の手術を受けた。
次走のシーズン最後のレースでは、2着に9馬身差を着ける圧勝で、96/97シーズンを6戦5勝、2着1回の成績で終えることなった。
97/98:ダーカン氏との別れ
97/98シーズンになってもイスタブラクは止まらない。
初戦を7馬身差で圧勝。続くレースも2馬身差、更に次走も2馬身半と連勝を続けていた。
しかし、ダーカン氏の体調はどんどん悪化していってしまい、年明け1月25日に行われるアイルランドの短距離障害の最高峰・愛チャンピオンハードル(16ハロン・約3218m)の4日前の1月21日に、ダーカン氏はこの世を去った。
享年31歳。若すぎる死であり、葬儀は競馬場の最寄りの教会でレース前日に行われた。
観衆が上記の経緯からイスタブラクに勝ってくれという異様な雰囲気を醸し出す中で行われたレースで、イスタブラクは叩き合いを制し、1馬身半差を着けて優勝した。
表彰の場に立ったのはダーカン氏の未亡人で、オブライエン調教師は「私の勝利ではない」と表彰台に立つことを辞退し、スワン騎手も「この勝利はジョンの為のもの」と語り、イスタブラクはオブライエン調教師の下に留まることとなった。
次走はチェルトナムフェスティバルの英チャンピオンハードル(16ハロン110ヤード・約3319m)へと向かった。
このレースでのパフォーマンスは圧巻で、レース中盤で先頭に立つとグングン差を広げ始め、ゴール前では馬なりで走ったにも関わらず12馬身差の大楽勝。
次走は叩き合いの末2着に敗れ、前年から続いていた連勝が途切れてしまうが、97/98シーズンは6戦5勝2着1回と優秀な成績を収めた。
この頃、オブライエン調教師はイスタブラクらの活躍によってクールモアの総帥ジョン・マグナー氏に手腕を認められ、ニジンスキーらを管理したヴィンセント・オブライエン調教師(血縁関係はナシ)の後継としてバリードイル厩舎を引き継ぐこととなった。
その後はジャイアンツコーズウェイ、ガリレオ……etcと数えるのも大変なくらいの名馬と共にクールモア&オブライエン調教師のコンビがヨーロッパの平地競馬を席捲することとなるが、オブライエン調教師はイスタブラクは例外的に調教を続けることとした。
ちなみにこれだけハードル競走の実績を挙げた馬は大体がスティープルチェイス競走に移行するのだが、イスタブラクは最後までハードル競走で続けることとなった。
98/99~99/00:止まらない進撃
98/99シーズンは初戦を4馬身差で勝利すると、再び連勝が続く。
3連勝して迎えた愛チャンピオンハードルでは、「イスタブラクなど恐れるに足らず」と挑発した陣営に対して、レースではその馬にピッタリと取りつき、相手が加速すればイスタブラクも加速し、減速すればイスタブラクも減速するという走りで挑発し返し、そのまま1馬身差をつけて勝利するという離れ業を披露して2連覇を達成した。
続く英チャンピオンハードルも3馬身半差を着けて2連覇し、残りの2レースも他馬を寄せ付けない走りで勝利。7戦全勝と最高の成績でシーズンを終えた。
99/00シーズンも開幕戦を勝利で飾るが、次戦で5馬身半差の2着に敗れてしまい連勝は再びストップ。
それでも次走を15馬身差圧勝で立て直し、愛チャンピオンハードルも4馬身差の圧勝で3連覇を達成。
続けて3連覇を狙う英チャンピオンハードルに出走するが、レース前夜に鼻血を出してしまうアクシデントが襲ってしまう。
幸い運動誘発性肺出血(競走に致命的な影響を与える為出走は不可能、日本ではやってしまったら1ヶ月出走不可)ではなかった為、鎮静剤を投与して何とか出走。
オブライエン調教師も英チャンピオンハードルでなければ確実に回避していたと語る程の状況であったが、それでも慎重に中団からレースを進め、ラストの障害を先頭で飛び越え、そのまま4馬身差を着け優勝。史上5頭目の英チャンピオンハードル3連覇を達成した。
この後は大事をとって休養に入り、このシーズンは5戦4勝、2着1回の十分な成績で終えた。
00/01~01/02:衰え・引退
00/01シーズンの初戦は障害転向後初めてとなる落馬競走中止に見舞われてしまう。
続く愛チャンピオンハードルも先頭を走る馬に中々詰め寄れず敗色濃厚であったが、先頭を走っていたモスクワフライヤーというう馬が最終飛越に失敗して落馬した為、棚ぼたで勝ちを拾うような形で優勝し4連覇を達成した。
史上初の4連覇を目指して英チャンピオンハードルに出走しようとするが、この年にイギリスを襲った口蹄疫の影響でチェルトナムフェスティバルが中止になってしまい、4連覇の機会が失われてしまった。
後年の話になるが、史上初の3連覇を目指すタイガーロールが出走する筈だったグランドナショナルが新型コロナウイルスで中止になった2020年といい、このタイミングで中止になってしまったのはさぞかし無念であっただろう。
閑話休題、仕方なく立て直して出走した筈のレースでは、最終障害で飛越に失敗してまたも落馬競走中止。勝ちを拾ったのは奇しくも愛チャンピオンハードルで先頭を走りながら落馬したモスクワフライヤーだった。
00/01シーズンを3戦1勝、落馬2回で終えるという過去最悪のシーズンになってしまった。
01/02シーズンも現役を続け、初戦をギリギリで勝利したが、イスタブラクが衰えているのは誰の目に見ても明らかであった。
それでも史上初の4勝目を目指して出走した英チャンピオンハードルだったが、スタート直後から行き足が付かず、2番目の障害を飛越したところでスワン騎手が異常を感じ競走中止となった。
1番人気で多額の額が投じられたはずのイスタブラクに対して、レースが終わっていないにも関わらず観客がスタンディングオベーションで見送るという異様な光景がそこにはあった。
その後の検査で、右後脚飛節の腱を負傷していることが判明し、これをもって引退が発表された。
最終成績は40戦25勝・2着7回、内障害は29戦23勝・2着3回・中止3回と抜群の成績であった。
余談
チェルトナムフェスティバルに出走したレースで4年連続勝利を挙げるというのは、もはや伝説級の活躍であり、2003年に英レーシングポスト紙が企画した“Favorite 100 Horse”(”好きな”であり”強かった”ではない)では、4位に記録された。
ちなみに1位~5位の内訳は下表の通りで、1位~4位までが障害馬で固められている。
順位 | 馬名 | 解説 |
---|---|---|
1位 | Arkle アークル |
1960年代のイギリス史上最高の障害の名馬 |
2位 | Desert Orchid デザートオーキッド |
1980年代に障害で活躍した芦毛のアイドルホース |
3位 | Redrum レッドラム |
グランドナショナル3勝を達成した名馬 |
4位 | Istabraq イスタブラク |
本馬 |
5位 | Brigadier Gerard ブリガディアジェラード |
通算18戦17勝、1970年代を代表する平地のスーパースター |
日本では平地が完全に人気であるが、イギリス・アイルランドでは障害の方が完全に人気であり、馬券の売り上げの上位の殆どが障害レースである。
引退後は、馬主のマクマナス氏が所有する牧場で仲の良い馬と悠々自適に過ごしているという。
日本ではオジュウチョウサンらの活躍でようやく障害に目を向けられるようになったが、海外の障害についても更に興味を持ってくれる人が増えてくれれば嬉しいと筆者は思っている。
血統表
Sadler's Well 1981 鹿毛 |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Fairy Bridge 1975 鹿毛 |
Bold Reason | Hail to Reason | |
Lalun | |||
Special | Forli | ||
Thong | |||
Betty's Secret 1977 栗毛 FNo.4-d |
Secretariat 1970 栗毛 |
Bold Ruler | Nasrullah |
Miss Disco | |||
Somethingroyal | Princequillo | ||
Inperatrice | |||
Betty Loraine 1965 栗毛 |
Prince John | Princequillo | |
Not Afraid | |||
Gay Hostess | Royal Charger | ||
Your Hostess | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearco 4×5×5(12.5%)、Princequillo 4×4(12.5%)
- 本馬の出産は大変な難産で、母ベティズシークレットはその後1999年に死亡するまで1頭も仔を産むことがなかった。
- 半姉ダンスプレイの仔に日本で障害重賞3連勝を挙げたロードプリヴェイル、半姉カトペトルの曾孫に重賞2勝のホウライアキコがいる。
関連動画
【競馬】イスタブラク Istabraq 【No.120】-Youtube
関連コミュニティ
関連項目
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