オーモンド(Ormonde)とは、1883年生まれのイギリスの元競走馬・元種牡馬。
生涯16戦16勝という完璧な成績を残した史上4頭目の英国クラシック三冠馬。
概要
父Bend Or、母Lily Agnes、母父Macaroniという血統。父ベンドアと母父マカロニはともに英ダービー馬で、母リリーアグネスも5ハロンから3マイルまでの幅広い距離で走って32戦21勝の成績を挙げており、いかにもクラシック向きという印象を受ける。実際、1歳上の半姉フェアウェルは英1000ギニー馬となっている。
幼少期のオーモンドは競走馬になれそうにないと言われた時期があったほど膝が湾曲しており、成長も遅かった。生産所有者の初代ウェストミンスター公爵から本馬の管理を任されたジョン・ポーター調教師が「今年の公爵の1歳馬の中では一番良いです」と評したように素質の片鱗はあったようだが、膝を怪我したこともあって2歳夏まではまともに調教することすら出来なかった。
ようやく調教が始まると筋骨隆々の素晴らしい馬体に成長し、調教で既走馬を煽る走りを見せた。デビューは2歳10月となった。
競走成績
デビュー2戦をいずれも楽勝すると、名手フレッド・アーチャー騎手とコンビを組んだ3戦目のデューハーストプレート(現:デューハーストS・GI)では翌年の1000ギニー・オークスを制することになるミスジャミーなどを相手に4馬身差で快勝して、2歳シーズンを3戦3勝で終えた。これにより、2歳で16戦(!)して無敗のザバードや、5戦5勝でミドルパークプレート(現:ミドルパークS・GI)を制したミンティングと並ぶ有力馬とみなされるようになった。
3歳時は2000ギニーから始動した。ここではミンティングが1番人気で、アーチャー騎手は別の有力馬であるサラバンドに騎乗したためオーモンドにはジョージ・バレット騎手が騎乗したが、蓋を開けるとオーモンドがミンティングに2馬身差を付けて勝利した。3着のメフィストはミンティングの10馬身後ろであったので、この勝利によってオーモンドがダービーの最有力候補とみなされるようになった。
続くダービーではミンティングがパリ大賞典に遠征した(5馬身差で圧勝)ため不在で、代わりにザバードが対抗筆頭に推された。単勝1.47倍の支持を受けたオーモンドはザバードと並んで最終コーナーで抜け出し、差し返そうとしたザバードを捉えて1馬身半差で勝利した。
その後3頭立てのセントジェームズパレスSを勝利し、中2日で古馬相手のハードウィックSに出走。前年のダービー・セントレジャー優勝馬メルトンなどを相手に単勝1.3倍の圧倒的支持を受け、メルトンに2馬身差を付けて勝利した。そして夏の休養を挟んで秋のセントレジャーに出走すると、単勝1.14倍の支持に応えてアーチャー騎手の手綱で2着セントミリンに4馬身差を付け楽勝。これにより20年ぶり史上4頭目、無敗馬としては史上初となる英国クラシック三冠を達成した。しかしこの時、既にオーモンドには生涯の病となる喉鳴りの兆候が現れ始めていた。
その後、単勝1.01倍という完全な一本被りとなった英チャンピオンSを含めて4連勝を挙げた。この中にはニューマーケットセントレジャーというレースを単走で「勝利」したのも含まれている。その後実現する予定だったザバード、メルトン、ベンディゴ(この年創設された第1回エクリプスSの優勝馬)との4頭マッチレースも、様々な事情でお流れとなったため本馬が単走で「勝利」した。
3歳時は10戦10勝だったが、お流れとなったマッチレースからしばらくして、アーチャー騎手が2年前に生後間もない長男と結婚2年目の妻を相次いで失ったことによるかねてからの精神耗弱、折からの減量苦、体調不良などの様々な理由を苦にして拳銃自殺してしまった。そのためトム・キャノン騎手が新たな主戦に起用されたが、オーモンドの方も喉鳴りが確実に身体を蝕みつつあった。
4歳時の復帰戦は6月のラウス記念Sとなった。ここでは本馬より25ポンド(約12kg)も軽い107ポンド(約48.5kg)で出走する3歳馬キルウォーリンが強敵となったが、結局オーモンドが6馬身差で圧勝。キルウォーリンの馬主はレース前に「こんなハンデがなくてもこっちの馬が勝つ」と吹いていたのだが、レース後には「オーモンドは馬じゃない、蒸気機関車だ」と言ったという。
翌日のハードウィックSでは、ベンディゴとミンティングが強敵となった。喉鳴りも考慮されて、本馬の単勝オッズはダービー以降では最も高い1.8倍となった。4頭立てながら徹底的に進路をブロックされる苦しい競馬となったが、最後の直線で何とか間隙を縫って抜け出すとミンティングをクビ差で下して辛勝した。オーモンドが初めて(そして結果的には唯一)本気を出したレースとなった。
この翌月、現在のジュライカップ(GI)に該当する6ハロン戦のインペリアルゴールドカップを2馬身差で勝利し、これを最後に引退した。引退直後にはヴィクトリア女王の園遊会に馬でありながら主賓として招待された。
通算成績は16戦16勝であった。クラシックでの好敵手だったザバードもミンティングも「10回ダービーに出れば9回は勝てる馬」と言われたほどの実力馬であり、それらを完封して三冠を達成した上で生涯無敗を守りきった本馬の評価は現在でも非常に高い。
流浪の種牡馬時代
引退後はイギリスで種牡馬入りしたが、受精率の悪さや体調不良により、初年度産駒は7頭、2年目の産駒は1頭しか出なかった。このため、受精率の悪さや涼しく湿気の多い気候、更に喉鳴りを患ったオーモンドの血がイギリスに拡散する懸念といった要素を考慮した初代ウェストミンスター公爵の判断で、本馬は2年目の種付けシーズン終了後にアルゼンチンに1万2000ポンドで売却された。
ところが、アルゼンチンでは20頭の産駒から4頭しか勝ち上がり馬が出ず、逆にイギリスに残した8頭の産駒は6頭が勝ち馬となり、更にエクリプスS連覇など18戦14勝2着3回の成績を残した名馬オームが出たため、イギリスの馬産家がシンジケートを結成して買い戻そうとした。
この計画は失敗したが、これを聞いたアメリカの馬産家が17万5000ドルで本馬を購入し、1893年からカリフォルニア州で繋養された。しかし受精率の悪さは相変わらずで、産駒は16頭しか残せなかった。この16頭にはステークスウィナーが5頭含まれているだけに、返す返すも受精率の悪さが惜しまれる。
1904年5月21日、突如として呼吸困難となり、更には半身不随となったため21歳で安楽死措置が執られた。サイアーラインはオームの直系子孫のテディの系統が現在も細々と繋がっている。また、骨格が現在ロンドン自然史博物館に展示されている。
血統表
Bend Or 1877 栗毛 |
Doncaster 1870 栗毛 |
Stockwell | The Baron |
Pocahontas | |||
Marigold | Teddington | ||
Ratan Mare | |||
Rouge Rose 1865 栗毛 |
Thormanby | Windhound | |
Alice Hawthorn | |||
Ellen Horne | Red Shank | ||
Delhi | |||
Lily Agnes 1871 鹿毛 FNo.16-h |
Macaroni 1860 鹿毛 |
Sweetmeat | Gladiator |
Lollypop | |||
Jocose | Pantaloon | ||
Banter | |||
Polly Agnes 1865 黒鹿毛 |
The Cure | Physician | |
Morsel | |||
Miss Agnes | Birdcatcher | ||
Agnes |
クロス:Pantaloon 4×5(9.38%)、Birdcatcher 5×4(9.38%)
- 父ベンドアの詳細は当該項目参照。
- 母父マカロニはデビュー戦で2着に負けただけの8戦7勝。その7勝には英2000ギニーと英ダービーが含まれている。
- 全妹オーナメントはクラシック4勝という離れ業を成したセプターの母となり、牝系は大きく発展して現在まで活力を保っている。日本でもクレオパトラトマス、クモハタ、ハクチカラ、ダイナガリバー、ゴールドシップ、ラキシス、サンビスタ、サトノアラジンなどがオーナメントの牝系子孫である。海外も含めると到底キリがないため、ここに挙げた以外の活躍馬に関してはこちらなどの牝系図を参照されたい。
主な産駒
- Orme (1889年産 牡 母 Angelica 母父 Galopin)
- Best Man (1890年産 牡 母 Wedlock 母父 Wenlock)
- Ormondale (1903年産 牡 母 Santa Bella 母父 St. Serf)
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関連項目
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