キエフ大公国とは、9世紀から1240年にかけてキエフを中心に存在した国家である。キエフ・ルーシとも。
概要
ノブゴロドを有していたオレーグがキーエフを征服して建国。諸説あるが、ヴァリャーグと呼ばれる集団が関与していたといわれる。このヴァリャーグは西方ではノルマン人やヴァイキングとも呼ばれる北方ゲルマン民族であったとされる。一方で、住民の大部分はスラブ語をしゃべるスラブ人であり、後年になるにつれ、ヴァリャーグの影響は衰える。
建国以後、数代にわたって、支配関係の維持と領域の拡大を目的とした周辺諸国への軍事行動を繰り返した。最大領域は、ヤロスラフ賢公の時代である。この頃には、東ローマ帝国からキリスト教(東方正教)を受容しており、キエフ府主教座が建てられる。
ヤロスラフ賢公の死後は、息子や親族間での大公位を巡る争いが起こり、大公国は分裂をしていく。南部に割拠したポロヴェツ人(キプチャク、クマン人とも)の大公国への攻撃はそれに拍車をかけた。ウラジーミル=モノマフが大公位に就くと、一時的にその傾向は抑えられるが、その子、ムスチスラフの死後は、再度、諸公国の独立、分裂は激しくなる。
事実上、分裂した大公国であったが、1236年に始まったモンゴル帝国の征西によって、領域は蹂躙され1240年にキエフが落とされたことで名実ともに滅んだ。
名称
国号はルーシ(古東スラブ語:Роусь、Русь)。ただし、ルーシは前時代には、ヴァリャーグ(ヴァイキング)をさし、のちの時代には、東スラブ人やロシア人のことをさしており、文脈により多分にあいまいになりがちである。このため、あえてルーシの呼び名を避けたキエフ大公国をはじめ、キエフ・ルーシ、キーエフ・ルーシ、キーエフ=ロシア、キエフ国家など多様な名で呼ばれる。呼称に関しては、ロシアの名を関すればロシアを暗にこの国の後継と見なすといった立場を示し、キエフの名を関すればキエフを有するウクライナこそその後継国家とする立場となりえる、といったナショナリズムとも絡む。
なお、大公の名を関するのは、君主の位великий князьに由来する。但し、великий князьを大公とするのはリトアニア大公国との対比やのちの時代におけるロシアの爵位の関係からで、великий князьは語源的にも当時の感覚としても王あるいは大王に相当する。
歴史
歴代大公
大公 | 備考 | ||
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古 | 古東スラブ語 | ||
宇 | ウクライナ語 | ||
露 | ロシア語 | ||
ノ | ノルド語 | ||
在位 (生没年) |
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リューリク | 厳密にはキエフ大公国の君主であったことはないが、便宜上ここに書く。リューリク朝開祖。 | ||
古 | Рюрикъ | ||
864-879 (830頃-879頃) |
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オレーグ | リューリクの親族。イーゴリの摂政。 | ||
古 | Олег | ||
ノ | Helgi | ||
882-912/922 (?-912/922) |
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イーゴリ1世 | リューリクの子。 | ||
古 | Игорь | ||
宇 | Ігор | ||
露 | Игорь | ||
ノ | Ingvar | ||
913-945 (867/877-945) |
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オリガ | イーゴリ1世の妻。厳密には、大公であったことはない。スヴャトスラフの摂政。 | ||
古 | Ольга | ||
945-963 (?-969.7.11) |
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スヴャトスラフ1世 | イーゴリ1世とオリガの子。 | ||
古 | Свѧтославъ Игоревичь | ||
宇 | Святослав Ігорович | ||
露 | Святослав Игоревич | ||
945/963-972 (942?-972.3) |
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ヤロポルク1世 | スヴャトスラフ1世の長男。 次弟のオレーグを殺害して、三弟ウラジーミルとの内乱となる。 |
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古 | Ярополк I Святославич | ||
972-980 (945?-980) |
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ウラジーミル1世 | スヴャトスラフ1世の三男。 領土を父の代から倍増させる。 キリスト教を国教と定め、東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚。聖公と呼ばれる。 |
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古 | Володимѣръ Свѧтославичь | ||
宇 | Володимир Святославич | ||
露 | Владимир Святославич | ||
978(980).6.11-1015.7.15 (955-1015.7.15) |
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スヴャトポルク1世 | ウラジーミル1世の長男(ただし、ヤロポルク1世の息子との疑いあり)。 異母弟ボリスとグレブを殺害し、呪われた者と呼ばれる。 弟のヤロスラフとの大公位を巡る争いに敗北し、逃亡を図るも病にかかり死亡。 |
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古 | Свѧтополкъ | ||
宇 | Святополк Окаянний | ||
露 | Святополк Окаянный | ||
1015-1016,1018-1019 (980?-1019) |
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ヤロスラフ1世 賢公 | ウラジーミル1世の息子。スビャトポルク1世の弟。 ノブゴロド公(1010-)。 兄、スヴャトポルク1世との争いに勝ち、大公位につく。 法の成文化をした。スラブ人からキーエフ府主教を出し、キエフのソフィア聖堂を建設した。最盛期を迎え、賢公と呼ばれる。 |
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古 | Ꙗросла́въ Володи́мировичъ Мѫдрꙑи | ||
宇 | Ярослав Володимирович Мудрий | ||
露 | Яросла́в Владимирович Му́дрый | ||
ノ | Jarizleifr | ||
1017,1019-1054.2.20 (978-1054.2.20) |
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イジャスラフ1世 | ヤロスラフ1世の子。 | ||
古 | Изѧславъ | ||
1054-1068 (1024-1078.10.3) |
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フセスラフ |
父はブリャチスラフ。祖父はウラジーミル1世の子、イジャスラフ。ポロツク公(1044-1068)。 キエフ市民に推されキエフ大公位に就くが、イジャスラフ1世がポーランドの支援を得て帰還すると、ポロツクに逃亡。 |
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露 | Всеслав | ||
1068.9-1069.4 (1039-1101.4.24) |
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イジャスラフ1世(復位) | ポーランドの援けを得て、復位。 | ||
1069-1073 | |||
スヴャトスラフ2世 | ヤロスラフ1世の子。イジャスラフ1世の弟。兄を追放して即位。 | ||
宇 | Святослáв II Ярослáвич | ||
露 | Святосла́в Яросла́вич | ||
1073-1076 (1027-1076.12.27) |
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フセヴォロド1世 |
ヤロスラフ1世の子。イジャスラフ1世、スヴャトスラフ2世の弟。兄の死により即位。 | ||
宇 | Всеволод I Ярославич | ||
露 | Всеволод I Ярославич | ||
ノ | Vissivald | ||
1076-1077 (1030?-1093.4.13) |
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イジャスラフ1世(復位) | 弟と和解により復位。 | ||
1077-1078 | |||
フセヴォロド1世(復位) | 兄の死により復位。 | ||
1078-1093 (1030?-1093.4.13) |
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スヴャトポルク2世 | イジャスラフ1世の子。 | ||
1093-1113 (1050.11.8-1113.4.16) |
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ウラジーミル2世モノマフ |
父はフセヴォロド1世。母は東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘。 大公国の中興を果たす。 |
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古 | Володимѣръ Мономахъ | ||
1113-1125 (1053-1125.5.19) |
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ムスチスラフ1世 | ウラジーミル・モノマフの子。 | ||
1125-1132 (1076.6.1-1132.4.14) |
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ヤロポルク2世 |
ウラジーミル・モノマフの子。ムスチスラフ1世の弟。 | ||
宇 | Ярополк Володимирович | ||
露 | Ярополк II Владимирович | ||
1132-1139 (1082-1139.2.18) |
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ヴャチェスラフ1世 |
ウラジーミル・モノマフの子。ムスチスラフ1世、ヤロポルク2世の弟。 スモレンスク公(1113-1127)、トゥーロフ公(1127-1132、1134-1142、1143-1146)、ペレヤスラヴリ公(1132-1134、1142-1143)。 |
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露 | Вячеслав Владимирович | ||
1139.2-1139.3.4, 1150.7, 1151.4-1154 (1083-1154.2.2) |
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フセヴォロド2世 |
スヴャトスラフ2世の孫。チェルニーヒウ公オレグ1世の長男。 | ||
宇 | Всеволод Ольгович | ||
露 | Всеволод Ольгович | ||
1139-1146 (1094-1146.8.1) |
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イーゴリ2世 |
スヴャトスラフ2世の孫。チェルニーヒウ公オレグ1世の息子。フセヴォロド2世の弟。 イジャスラフがキエフ大公位を狙い兵をあげると、キエフ市民に裏切られ、幽閉。修道院に入る。後に、殺害される。 |
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宇 | Ігор II Ольгович | ||
露 | Игорь II Ольгович | ||
1146 (?-1147.9.19) |
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イジャスラフ2世 |
ムスチスラフ1世の子。 ポロツク公(1129-)ミンスク公(1129-)、ペレヤスラヴリ・ルースキーの公(1132-) |
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宇 | Ізяслав Мстиславич | ||
露 | Изяслав Мстиславич | ||
1146-1149,1150,1150-1154 (1196-1154.11.13) |
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ユーリー1世ドルゴルーキー |
ウラジーミル・モノマフの六男。ドルゴルーキー(手長公)と呼ばれる。モスクワの建設者。 イジャスラフ2世と大公位を争う。 |
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宇 | Юрій Долгорукий | ||
露 | Юрий Владимирович | ||
1149-1150,1150,1155-1157 (1099頃-1157.5.15) |
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ヴャチェスラフ1世 | イジャスラフとユーリーとの戦いの中キエフに入り復位。 イジャスラフと和解し、大公位を譲渡。 |
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1150 | |||
イジャスラフ2世 | ヴェチェスラフとの和解により、大公位に復位。 ヴェチェスラフを共同統治者として大公位を安定させる。 |
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1150-1154.11.13 | |||
ヴャチェスラフ1世 | イジャスラフとの和解により、共同統治者として復位。 イジャスラフの死から間を置かずして死去。 |
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1151-1154 | |||
ロスチスラフ1世 |
ムスチスラフ1世の五男。イジャスラフ2世の弟。 スモレンスク公(1129-) イジャスラフ2世の死により跡を継ぐ。ヴャチェスラフ1世の死後、単独統治者となるも、イジャスラフ3世に敗北し退位。 |
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露 | Ростислав Мстиславич | ||
1154,1159-1161, 1161-1167 (1110-1167) |
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イジャスラフ3世 |
スビャトスラフ2世の孫、ダヴィドの四男。 ロスチスラフ1世の襲位を認めず軍事力でキエフ公位に就く。然し、ユーリー・ドルゴルーキーに反対され、チェルニゴフに帰還。 |
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古 | Изѧславъ | ||
1154-1155,1158-1159,1161-1162 (?-1162) |
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ムスチスラフ2世 |
イジャスラフ2世の長男。 | ||
宇 | Мстислав Ізяславич | ||
露 | Мстислав Изяславич | ||
1167-1169 (?-1172) |
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グレプ |
ユーリー・ドルゴルーキーの息子。 | ||
宇 | Гліб Юрійович | ||
露 | Глеб Юрьевич | ||
1169 | |||
ムスチスラフ2世(復位) | |||
1170 | |||
グレプ(復位) | |||
1170-1171 | |||
ウラジーミル3世ムスチスラヴィチ | ムスチスラフ1世の息子。 | ||
宇 | Володимир Мстиславич | ||
露 | Владимир III Мстиславич | ||
1171 (1132-1173) |
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ミハイル・ユーリエヴィチ |
ユーリー・ドルゴルーキーの息子。 | ||
宇 | Михайло Юрійович | ||
露 | Михалко (Михаил) Юрьевич | ||
1171 (?-1176.2.20) |
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ロマン1世ロスチスラヴィチ | ロスチスラフ1世の子。 | ||
宇 | Роман Ростиславич | ||
露 | Роман Ростиславич | ||
1171-1173 (?-1180) |
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フセヴォロド3世 |
ユーリー・ドルゴルーキーの息子。十男或いは十一男。 子が多く、大巣公(Большо́е Гнездо́、ボリショイ・グネズド)と呼ばれる。 |
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宇 | Всеволод III Юрійович Велике Гніздо | ||
露 | Все́волод III Ю́рьевич Большо́е Гнездо́ | ||
1173 (1154-1212.4.15) |
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リューリク2世ロスチスラヴィチ |
ロスチスラフ1世の子。 | ||
宇 | Рюрик Ростиславич | ||
露 | Рюрик Ростиславич | ||
1173 (?-1215) |
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スヴャトスラフ3世フセヴォロドヴィチ | フセヴォロド2世の息子。 | ||
宇 | Святослав III Всеволодич | ||
露 | Святослав III Всеволодич | ||
1174 (?-1194) |
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ヤロスラフ2世イジャスラヴィチ | イジャスラフ2世の次男。ムスチスラフ2世の弟。 | ||
宇 | Яросла́в II Ізясла́вич | ||
露 | Ярослав II Изяславич | ||
1174–1175 (1132-1180) |
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ロマン1世ロスチスラヴィチ(復位) | |||
1175-1177 | |||
スヴャトスラフ3世フセヴォロドヴィチ(復位) | |||
1177–1180 | |||
ヤロスラフ2世イジャスラヴィチ(復位) | |||
1180 | |||
リューリク2世ロスチスラヴィチ(復位) | |||
1180–1182 | |||
スヴャトスラフ3世フセヴォロドヴィチ(復位) | |||
1182–1194 | |||
リューリク2世ロスチスラヴィチ(復位) | |||
1194–1202 | |||
イングヴァリ1世 |
ヤロスラフ2世の子。 | ||
宇 | Інгвар Ярославич | ||
露 | Ингварь Ярославич | ||
1202 (?-?) |
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リューリク2世ロスチスラヴィチ(復位) | |||
1203–1205, 1206, 1207–1210 | |||
ロスチスラフ2世 |
リューリク2世の子。リューリク2世との共同統治。 | ||
宇 | Ростислав Рюрикович | ||
露 | Ростислав Рюрикович | ||
1203-1204 (1172-1218) |
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ロマン・ムスティスラーヴィチ | ムスチスラフ2世の子。 ロマン大公として知られる。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の創始者。リューリク2世との共同統治。大公国最後の盛期。 | ||
古 | Романъ Мьстиславичь | ||
宇 | Роман Мстиславич | ||
露 | Роман Мстиславич | ||
1204-1205(1152?-1205.6.19) | |||
フセヴォロド4世スヴャトスラヴィチ 赤公 | スヴャトスラフ3世の息子。 | ||
宇 | Все́волод-Дани́ло Святосл́авич Че́рмний | ||
露 | Всеволод Святославич Чермный | ||
1203, 1206, 1207, 1208–1212 (?-1212.8) |
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イングヴァリ1世(復位) | |||
1212-1214 | |||
ムスチスラフ3世 |
ロマン・ロスチスラヴィチの子。 モンゴル帝国最初の侵攻に対して、諸侯を集め対抗するも、カルカ河畔の戦いで敗北して捕虜となり殺された。 |
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宇 | Мстислав Старий | ||
露 | Мстислав Романович Старый | ||
1214-1223 (?-1223) |
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ウラジーミル4世 |
リューリク2世の子。 | ||
宇 | Володимир Рюрикович | ||
露 | Владимир Рюрикович | ||
1223-1235 (1187-1235.3.3) |
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イジャスラフ4世 | |||
1235-1236 | |||
ヤロスラフ3世 | フセヴォロド3世の子。ウラジーミル大公としては2世。 | ||
1236 (1191.2.8-1246.9.30) |
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ミハイル2世 | フセヴォロド4世の子。 | ||
1236–1240 (1185-1246.9.20) |
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ロスチスラフ3世 | |||
1239 (?-?) |
|||
ミハイル2世(復位) | |||
1240, 1241–1243 | |||
ダニール1世 | ロマン・ムスティスラーヴィチの子。 モンゴル帝国によってキエフ占領。大公国滅亡。 |
||
1239-1240 (1201-1264) |
隣接勢力
- フィン人
- バルト人
- ハザール・ハン国(ハザール・カガン国)
- ペチェネグ人
- ポロヴェツ人(キプチャク、クマン人)
- 第一次ブルガリア帝国
- 東ローマ帝国
- ハンガリー王国
- ポーランド王国
- リトアニア大公国
- ドイツ騎士団
関連項目
- 4
- 0pt