概要
記事の掲載まで
連合国軍占領下にあった日本では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令によってレッドパージと呼ばれる動きが見られた。これは共産党員やその同調者を公務員や民間企業から退職させた(事実上の追放)ものであり、その中で日本共産党の幹部にも逮捕状が出された。彼らは地下に潜伏し逃亡を続けたが、その中に伊藤律も含まれていた。
伊藤はしばらく逃亡を続けたが、1950年9月27日の朝日新聞紙面上において、同社の記者が接触、インタビューに成功した旨の記事が掲載された。それによれば伊藤は宝塚の山中にあり、「潜入の目的は言えぬ」とのことであった。
この記事が驚きをもって迎えられたことは想像に難くない。見つかれば逮捕され、今後の活動に大きなデメリットとなることは必至である。それを避けるために中国に逃亡した者もいた。にもかかわらず伊藤はインタビューを受け、そしてそれが全国紙の記事になったのである。まさに大スクープである。そう、それが真実であったならば…
捏造の発覚
だが、この記事を書いた記者に対して法務府(現在の法務省)が聴取を行ったところ、この記者は伊藤と会ったとされる時刻には旅館にいたことが判明する。つまり、記者は伊藤と会っていないし、当然インタビューなどしていないのである。すなわち、「伊藤律に対するインタビュー記事」は捏造であったのだ。
出稿前には共産党担当の記者などから「なぜ伊藤にメリットがないのにインタビューに応じたのか?」という疑問の声もあったが、現場の声に推されて報道に踏み切ってしまった。
この記事を見た伊藤は、なかなかの迫真の記事に爆笑したという。記者は伊藤の高校の後輩であった。なおこの記事は朝日新聞の縮刷版からは削除されており、現在は見ることができない。
伊藤律のその後
伊藤はその後1951年に中国に渡り「北京機関」に合流したが、党内での対立や中国共産党との関係といった問題から日本共産党を除名され、中国において投獄されることとなった。文化大革命における迫害を経て、1979年に伊藤は釈放され、翌1980年に日本に帰国した。日本においてはいくつかの本を執筆したり、社会運動に参加したりしていたが、1989年8月7日に腎不全で死去した。
関連動画
関連項目
- 朝日新聞
- うそ新聞
- 1982年 吉田証言捏造事件
- 1984年 南京事件上等兵日記捏造事件
- 1989年 サンゴKY事件
- 1991年 慰安婦強制連行捏造事件
- 1995年 石原信夫祝儀袋捏造事件
- 2001年 自民党員名簿捏造事件
- 2002年 中田英寿引退捏造事件
- 2004年 女子十二楽坊剽窃捏造事件
- 2004年 イラク着弾捏造事件
- 2005年 NHK圧力改変捏造事件
- 2005年 新党日本会談捏造事件
- 2005年 漫画嫌韓流ランキング捏造事件
- 2014年 吉田調書捏造事件
- 2014年 任天堂取材捏造事件
- 2014年 撃ち方やめ捏造事件
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