小田部羊一(こたべ よういち)とは、台湾台北市生まれのアニメーター、ゲームクリエイターである。
概要
アニメーターとして高畑勲、宮崎駿らのちの日本を代表するアニメーション監督たちと共に切磋琢磨し、任天堂のアドバイザーとしてゲームにアニメーション技術とノウハウを持ち込みアニメーション技術者としてアニメ、ゲームの2面から業界を大いに発展させたまさに伝説と言えるクリエイターである。
アニメーターとしては特に波の作画表現の第一人者として広く認知されており、発言の節々で波に対する探究心をうかがわせている。
妻である奥山玲子(逝去)と共通で「あんていろーぷ」と名乗ることがある。
来歴
少年期
油絵を描いていた父親の影響で自身も絵を描く子供で勉強は苦手だった。小学生頃には母親にマッチ棒のような棒人間が動くパラパラ漫画を見せてもらったことがあり、それが最初のアニメーションへの直接的なきっかけであったという。
高校に上がる頃には元々女子高だった学校が共学に再編される際に入学し、そこが都内随一の成績優良校であったため女子の成績がダントツに良く、ますます勉強から離れていった。
そして高校を出る際に親に「国公立なら大学に入ってもいい」と言われ水彩画を描くだけで受験できた東京芸術大学の日本画科に受験したところそれまで日本画を描いた経験が無いのにまぐれで受かってしまう。
そこで日本画の大家に学びながらああいった高みにゆかねばと決意を固めるもののいざ就職となると働き口が中々なく悩んでいたところ東映動画から募集がかかる。ディスニー映画を観て育った影響から小田部は「日本のアニメーションは大したことが無い」と思い込んでいたが、東映が初めて制作した長編劇場アニメーション「白蛇伝」を観て心が動き、学友の女性二人を誘って入社試験を受けたもののその二人は合格したが小田部自身は落ちてしまう。しかしすぐにかかった2次募集に滑り込みなんとか合格、アニメーターとしてのキャリアをスタートさせることとなった。
アニメーター時代
東映動画
東映の同期入社にはひこねのりおや高畑勲、池田宏と言った面々が名を連ね、同じ班にアニメーターだった頃の宮崎駿がいたこともあった。
数年の動画経験を経たのち動画へ昇格したものの東映動画が芸術性より経済性を重視し話題のある漫画原作などに傾倒していったため小田部自身も徐々にやらされ仕事になっていっていた。
そんな中、同期の高畑勲が初監督に就任した「太陽の王子ホルスの大冒険」で彼の作品に対する情熱と必要な描写をスタッフに強く求める姿勢に影響されアニメーションに対する根性を備えていった。その後はどんな仕事が来ても恐くなくなったと語っている。
波の表現に磨きをかけたのはこの頃で「太陽の王子ホルスの大冒険」では旅立ちの波のシーン、「長靴をはいた猫」では魔王が壊す水鏡と噴水のシーンを担当している。「どうぶつ宝島」では海のシーンが豊富にある本作において、ベテランの水の描き手である大塚康生が抜けたことが大きな痛手となっていたため、監督から誰でも簡単に描ける波の描き方を開発するよう1ヶ月の期間を与えられた。そして、その期間で山送りでリピートという描き方を完成させのちにこの描き方は業界全体のスタンダードになり、現在でも使われ続けている。
Aプロ→日アニ→フリー
上述の東映での環境の変化により創造性の高い作品の追及が出来なくなって失望感に溢れていた頃、あるプロダクションから宮崎、高畑と揃ってある児童文学の名作を作らないかと声をかけられる。東映に行き詰まりを感じていた3人はその誘いに乗る形で東映を退社するが、原作者のOKを取ることができず無為に終わってしまう。
しかし、その企画が流れたことで「パンダコパンダ」の企画が立ち上がり退社した3人で制作に参加することになった。その直後また別の会社から「アルプスの少女ハイジ」の話を持ちかけられる。東映を退社して間もなかったこともあって一時はためらいがあったものの、高畑に作品が作れるという確信があるなら自分と宮崎はついていくと言い、そうして「ハイジ」のアニメ化が実現することとなった。
ハイジが終了した後も「母を訪ねて三千里」など高畑、宮崎らと組んで多くの作品に携わるものの、少しずつ一緒に作品に参加することが少なくなっていった。そんな中、高畑、宮崎がジブリを立ち上げる前身となった「風の谷のナウシカ」で原画をやってくれと頼まれ、死んだナウシカが再生する重要なシーンを担当した。ただし、この時どれほど重要なシーンであるかを教えられなかったためコンテを全編分見ていなかったことを宮崎に試写会で怒ったという。当時、小田部と高畑、宮崎らがあまり仕事を共にしていなかったことから、彼らがどれほど小田部の腕を高く評価してこのシーンを描いてもらいたかったかがうかがい知れるだろう。
ゲームクリエイター時代
2D、デザイナー
1985年、東映動画の同期で後に任天堂に入っていた池田宏からアニメーションのノウハウを求められて任天堂に来るよう誘いを受ける。
当時の小田部は、会社に入ってアニメを作っているときの水がよどんでいくような感覚を嫌ってフリーになっていたが、断片的で面白くない仕事が多く行き詰まりを感じていた時で、渡りに船とばかりにその誘いに乗ることになった。
とは言ったものの当時の技術ではアニメーションをゲーム中で表現するのには制約が多く、アニメーション表現をゲームに取り入れていくにはもう少し時間を必要とすることとなる。そのため小田部はそれまで外注の多かったゲームのパッケージや説明書中のイラストレーションを中心に活動することになる。
イラスト担当としての主な業績は、それまでドット絵でしか認識されていなかったゲームキャラクター、とりわけマリオシリーズのキャラクターたちのデザインを完成形にしたことである。当初は原案者である宮本茂に逐一確認しながらデザインを固めていく方針で作業が行われた。
3D、アドバイザー
ハードがニンテンドウ64に移りゲームに3Dが導入されるといよいよ小田部が本格的にアニメーションのノウハウを活用する時代がやってくることになる。
マリオのキャラクターを3Dにするにあたっては、上述のイラストが大きな助けとなり動きに関して綿密な会議をこなし形にしていった。
キャラクターの3D化における大きな仕事がポケモンスタジアムにおける151匹分の3Dモデリング監修で、それらすべてにアドバイスを入れクオリティアップに多大な貢献をした。その様子を見ていた岩田聡は、小田部が指摘したところを直すとみるみるうちによくなっていく様はまるで魔法を見ているようだったと語っている。
任天堂退社後
2007年には任天堂を退社したが、監修の過程で多くの弟子を任天堂に生んでおり、その血は今も脈々と受け継がれている。現在は講師やフリーの立場での監修業に従事しながらアニメ、ゲーム業界に携わっている。
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