菅屋長頼(すがや・ながより ?~1582)とは、戦国時代~安土桃山時代の武将である。織田家臣。
本能寺の変で討死した人物の一人。姓は「菅谷」と書かれることも。
概要
父は織田信房。小豆坂七本槍の一人で桶狭間の戦い前後に歴史から姿を消している。そのため討死した可能性がある。
信房は織田の名字を名乗ってはいるが彼の家柄は織田一門ではなく、信房の祖父(長頼の曽祖父)の岸蔵坊が織田姓を賜ってから織田と名乗りだしたのだという。「信長公記」では信房は信秀の弟たちの次に名前が挙がっており、少なくとも太田牛一には一門扱いされていた。
※ちなみに織田信房という名前は信長の五男勝長の史料に出てくる名前でもある。(織田源三郎信房)
菅屋長頼はその信房の次男として誕生、兄は小瀬清長(おぜ・きよなが)といい、長島一向一揆で討死にした。
幼名は長。元服前から菅屋姓を賜っていたようで1560年代後半から菅屋九右衛門として登場。父の扱いなどからもわかる通り若い頃から信長に仕えていた。
山科言継が記した戦国期の情勢を知る重要史料、「言継卿記」の永禄12年(1569年)に言継が岐阜を訪れた時に接待したときに長頼が初めて歴史に現れる。
また同年の織田氏と北畠氏との戦い大河内城の戦いでは、馬廻として前田利家、河尻秀隆、塙直政らとともに戦っている(彼らは「尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)」と呼ばれた)。
馬廻は本陣を守る武芸に秀でたエリートが務める立場であり、織田家の馬廻は土豪の次男以下の男子が務めることが多く、長頼もその例に漏れず抜擢されたようだ。
元亀元年(1570年)の姉川の戦い、志賀の陣にも参陣したが、馬廻ながら足利義昭や言継の取次をしていたりするので、馬廻且つ信長の側近のような役割をしていた。また赤母衣衆に抜擢されていた塙直政と同じ額の金銭を公卿の吉田兼見から受け取っていたりするので馬廻の中でも地位は特別なものだったようだ。
信長包囲網が敷かれて激化してきたこの頃から、長頼は信長から奉行職を任されるようになる。
天正元年(1573年)に信長を狙撃&暗殺しようとした杉谷善住坊の尋問、処刑や同2年(1574年)の柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛とともに蘭奢待切り取り奉行など様々な奉行職をしていた。
また戦場にも出ていたようで、天正6年(1578年)の荒木村重の謀反から起こった有岡城の戦いでは鉄砲隊を率いて戦っている。
柴田勝家・前田利家・佐々成政ら北陸方面軍が形成されてからは、北陸地方の軍事は彼らに任されていたが、天正8年(1580年)ごろから政務の方は長頼が担当していた。(この際に、軍事面の面々とは衝突もあったようで、彼らが長頼のことをやっかんだりしたこともあった。)
長頼自身も能登入りし、直接政務に当たったり、上杉氏との外交も任されていたようである。また上杉氏と内通したと疑いのあった寺崎盛永らを捕縛したり、元畠山家臣の遊佐続光らを七尾城に呼び出し、やはりこれの処刑も担当している。
軍事を担当する勝家らに対しては了承などを仰いだことは無く、単独で政務を実行できるほどの権限を持っていたとされる。
天正10年(1582年)の甲州征伐では再び信長に近侍していて、長頼、堀秀政、長谷川秀一、福富秀勝、矢部家定の5人が馬廻を率いて甲斐国入りしたが、先に現地に入っていた信忠軍団が強すぎて彼ら馬廻に戦闘が無いくらいに大勢が決まっていた。
そして運命の日が近づいていた。5月29日に信長に従って上洛した長頼だったが、6月2日に本能寺の変が発生。市中に宿をとっていた長頼は本能寺に駆け付けたが本能寺には入れず、二条御所の織田信忠の元に駆け付けて彼らに殉じた。
長頼には長男角蔵、次男勝次郎がいたが、角蔵は本能寺で、勝次郎は二条御所で討死にしたため子孫は伝わっていない。
歴史にたらればは禁物だが、本能寺が発生していなければいずれ天下統一していたであろう織田政権の元、政務で絶大な力を持っていた人物である。
ところがなぜかこの長頼、史料にある活躍のわりに「信長の野望」シリーズには1回も出ていない。
菅屋長頼「解せぬ…」
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関連リンク
関連項目
- 織田信長(主君)
- 織田信忠
- 村井貞勝(同じく織田政権下の奉行衆、本能寺で討死)
- 柴田勝家
- 佐々成政(小豆坂七本槍には成政の長兄、次兄が入っている)
- 堀秀政(行動を共にすることが多かった)
- 本能寺の変
- 戦国時代の人物一覧
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