西太后(1835~1908)とは、中国の清王朝、咸豊帝の妃である。
慈禧太后と呼ぶこともあるが、宮廷の西側に住んでいたので、東側に住んでいた咸豊帝の皇后「東太后」と区別して西太后という通称が一般的になっている。
出自
幼名は蘭児。満州旗人で葉赫那拉(エホナラ)氏の恵徴の娘。父は赴任先の安徽省で太平天国の乱に巻き込まれ、1853年に病死している。
その前年1852年、後の西太后は紫禁城で行われる皇帝や皇子の妃候補を決める面接試験を通り、翌年に清王朝9代皇帝咸豊帝の後宮に入った。当初の称号は蘭貴人で、1856年に咸豊帝との間に男子(載淳)を産み、称号が懿貴妃となった。
垂簾聴政
アロー戦争(第二次アヘン戦争)で、イギリス・フランスの軍勢に首都北京を侵略され、郊外の熱河(河北省承徳市)に逃げていた咸豊帝は1861年に同地で崩御。懿貴妃(西太后)との間に生まれていた載淳が清の10代皇帝に即位することになり、懿貴妃と生前に咸豊帝から後見の遺命を受けていた粛順、端華、載垣らの大臣との政争が顕著になった。
ここで懿貴妃は、咸豊帝の皇后(東太后)と、咸豊帝の弟の恭親王奕訢を味方にして、クーデターで粛順らを粛清する(辛酉政変)。かくして載淳は同治帝として正式に即位、西太后は東太后と共に垂簾聴政(皇帝に代わり母が政治を執る)を行うこととなった。
太平天国の乱が鎮圧されていたこともあり、西太后や恭親王らは洋務運動と呼ばれる技術革新を図り、斜陽の清王朝の中興をある程度実現する。そんな中、1874年同治帝が19歳の若さで後嗣なく崩御する。
日清戦争と戊戌の政変
清朝では、皇帝が男子なく崩御した時は一世代あと(甥)が皇位を継承する事になっていた。しかし西太后は咸豊帝の弟である醇親王奕譞の次男、載湉を光緒帝として即位させる。載湉は西太后の妹の子でもあった。
引き続き西太后は垂簾聴政で清朝の政治をリードしていく。1881年に東太后が死去し、1884年に恭親王奕訢が清仏戦争の敗北の責任を取らされ失脚すると彼女を抑える者はいなくなる。それでも光緒帝が成年に達すると徐々に実権を光緒帝に渡し、その皇后には西太后の姪(弟の娘)を推挙している。
1894年に始まった日清戦争は翌年に敗北という結末となり、清朝の真の改革は体制的な変革を経るべきだという意見が強まり、1898年、光緒帝支持のもと康有為、梁啓超といったメンバーが「戊戌の変法」を進めていく。しかし急激な変革への批判や内部対立により、同年西太后は反変派の支持のもとクーデターを実施、光緒帝を幽閉し変法派の主要メンバーは亡命、粛清などで壊滅させられ、再び西太后が政権を握る(戊戌の政変)。
このクーデターは袁世凱の密告で引き起こされたものとされるが真相は不明。また、光緒帝を廃位しその甥の溥儁が一時保慶帝して擁立されたが、3日で光緒帝が復辟している。
義和団事件
眠れる獅子、清朝が諸外国の半植民地化しているのを防ぐため「扶清滅洋」をスローガンに挙げる義和団という政治結社が、領内の外国人やキリスト教徒を襲い暴徒化すると、諸外国は連合軍を派遣してその保護に乗り出す。ここへ来て西太后は義和団の行動を支持し、諸外国に宣戦布告する。1900年のことである。
しかし諸外国の軍勢が北京に迫ると西太后らは西安に脱出。光緒帝の愛妃である珍妃が井戸に投げ込まれて殺されたのはこの時である。
結局、李鴻章らの尽力により清朝は諸外国に多額の賠償と義和団事件の後始末を約束することで西太后は為政者として復帰した。西太后は従来の体制では清朝を維持できないことを悟り、光緒新政といわれる抜本的な政治改革を断行、立憲君主制への道を用意した。
その死
1908年11月14日、光緒帝が38歳で崩御。その翌15日、後を追うかのように西太后も72歳で崩御した。光緒帝の後継者には帝の弟である醇親王載灃と寵臣である栄禄の娘との間に出来た3歳の子、溥儀を指名していた。
清朝は1911年の辛亥革命の勃発により、袁世凱の手で終焉を迎えた。
1928年に蒋介石の国民革命軍に所属していた孫殿英の手で、乾隆帝や西太后が眠る東陵が大略奪を受ける。これを聞いた、既に紫禁城を追い出され天津に住んでいた溥儀は激怒し復讐を誓った。後に彼が満州国の皇帝を引き受ける経緯となったとされる。
系図
※ ⑧、⑨…は清の皇帝即位順
⑧宣宗道光帝(旻寧)
│
┌────┬─────────┴────────┬────────┐
│ │ │ │
│ 恭親王奕訢 恵徴 │ 惇親王奕誴(咸豊帝の弟)
│ ┌──────┼──┐ │ │
醇親王奕譞─┬─婉貞 桂祥 西太后─┬─⑨文宗咸豊帝(奕詝) 端郡王載漪
│ │ │ .│ │
│ ⑪徳宗光緒帝(載湉)──隆裕太后 ⑩穆宗同治帝(載淳) 保慶帝(溥儁)
│
醇親王載灃─┬─幼蘭(栄禄の娘)
│
┌───┤
溥傑 ⑫宣統帝(溥儀)
西太后の逸話
小説や映画等の影響もあり、西太后は稀代の悪女、ドラゴン・レディとして今も悪名を轟かしている。だが、全ての悪行が彼女によるものでは決して無く、時代に翻弄された、あるいは彼女なりに抗った結果が今日までの評価を決めつけているかもしれない。
また、西太后にまつわる料理やグッズなどが今でも数多く伝えられるなど、清王朝を語る上で西太后は切っても切れない重要なキーとなっているといえる。
- 幼名は蘭児だが、実は正式な名前は伝わっていない。2007年に西太后の弟桂祥の曾孫(自称)が西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬という説を提唱したが、疑問も多い。
- よく西太后と結び付けられて語られる話が
* 西太后は下級官吏の貧しい出自で、円明園の宮女だった時にたまたま歌っていたところを咸豊帝に見初められた
* 「葉赫那拉氏の呪い」(清が建国時に葉赫那拉氏は最後まで反抗したため滅ぼされたが、族長が死ぬ前に我等は女一人だけ残っても愛新覚羅氏(清の姓)を滅ぼすという呪いをかけたため清では葉赫那拉氏の女を妃にしない決まりだったが、咸豊帝がそれを破って葉赫那拉氏の西太后を妃にしてしまった)
* 咸豊帝の愛妃だった麗妃の手足を切り取って瓶の中に入れた
などなどである。しかし実際はこれらの逸話はどれも根拠が無い民間伝承に過ぎない(たとえば麗妃は1890年に54歳で天寿を全うしている)。 - 頤和園の造営に海軍の予算を流用したため、日清戦争の敗因となったという説がある。少なくとも日清戦争前に清が海軍の増強を行なっていなかったのは確かである。
- 西太后の若い頃の肖像は残っていないが、光緒新政のあたりから、西洋の画家に肖像画を描かせたり写真を積極的に撮らせるようになった。
- 西太后の死の前日に光緒帝が死んでいるため、二人の死に関しては様々な憶測が飛び交っている。光緒帝は毒殺の証拠がはっきりしているとされているが、真相は闇の中である。
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