- プロ野球選手一覧 > 須藤豊
概要
OB | |
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須藤豊 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 高知県安芸郡 |
生年月日 | 1937年4月21日 |
身長 体重 |
173cm 74kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1956年 |
引退 | 1968年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1937年4月21日生まれ。高知県安芸郡(現:安芸市)出身。
高知商業高等学校へ進学。ショートのレギュラーとしてプレーし、2年時には春夏連続で甲子園大会に出場。夏の甲子園では準決勝まで勝ち進んだ。その後に開催された国体では全国制覇も経験した。
初年度のオープン戦ではほぼ未経験のセカンドを無難に守り、打撃面でも代打で安打を放つなどアピールに成功し開幕一軍の座を掴む。開幕2戦目に8番セカンドでスタメン起用され、この試合で2安打を放ち、スタメンに定着。133試合に出場し、打率.242、1本塁打、22打点、8盗塁を記録した。
1957年、規定打席に到達し、打率.278、1本塁打、34打点、3盗塁を記録。
1958年、球団合併に伴い加入した佐々木信也にポジションを奪われ、打率.190と低迷。
以降は守備固めなど控えでの起用が中心となる。
1961年、代打の準備をしていた所、当時の監督であった宇野光雄から「なんだ、スー(須藤の愛称)しかおらんのか。仕方ない、そんならお前が行け。」と代打で起用されたが、この発言に須藤が「監督なら誰が残っているかくらいしっかり覚えときや!」と観客に聞こえるほどの大声で激怒。これがきっかけとなり、宇野監督との間に確執が生まれ、同年オフにトレードで読売ジャイアンツへ移籍することとなった。
1962年、セカンドのレギュラー争いに加わり、92試合に出場。
翌1963年は打率.159と低迷したが、1964年はセカンドのレギュラーとして84試合に出場し、打率.280を記録。
以降は土井正三の加入もあり控えに回ったが、スーパーサブやチームの盛り上げ役として貢献度は高かった。
引退後、巨人に残りコーチを務めたが、1975年に巨人が創設以来初の最下位に終わり、責任を取る形で退団。
巨人退団後4年間はサラリーマンとして勤務し、休日には野球解説者としても活動。
1980年に横浜大洋ホエールズの二軍監督として現場復帰。その後巨人のコーチを務めた後、1990年に横浜大洋の監督に就任。
1990年、若手・ベテラン・助っ人外国人が見事に噛み合い、3位と躍進。チームにとっては7年ぶりのAクラスであり、これが横浜大洋ホエールズ最後のAクラスとなった。
翌1991年はR.J.レイノルズの活躍や佐々木主浩、盛田幸妃の台頭など明るい話題もあったが、故障者が続出し5位に沈んだ。1992年は開幕から低迷し5月上旬に休養、そのまま退団した。
その後、巨人や西武ライオンズのヘッドコーチを務め、コーチを務めていない時期は解説者として活動。高知ファイティングドッグスのアドバイザリースタッフなども務めた。
人物・エピソード
現役時代は俊足と堅実な守備でチームに貢献したバイプレーヤー。ムードメーカーとしての貢献度も高く、野次将軍っぷりも有名であったという。
コーチ・監督としては粘り強い指導が持ち味であり、選手との対話を重視し、時には鉄拳制裁も用いて数多くの選手を指導。河埜和正をはじめ、高木豊、屋鋪要、村田真一、川相昌弘、緒方耕一、盛田幸妃など、名選手たちを育てた。
歯切れ良くユーモアのあるトークや温かい人柄で知られたが、熱くなりやすい人物としても有名で、コーチ・監督時代には帽子を地面に叩きつけ、顔を真っ赤にしながら抗議する場面も多く見られた。
通算成績
打撃成績
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 959 | 2349 | 2149 | 183 | 495 | 8 | 143 | 42 | 51 | 10 | 134 | 5 | 284 | 50 | .230 | .277 |
監督成績
通算:3年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 288 | 138 | 147 | 4 | .488 | Aクラス1回、Bクラス2回 |
関連動画
関連項目
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