イギリスの鉄道単語

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イギリスの鉄道とは、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国における鉄道である。

なお、本稿では基本的にグレートブリテン及びそれに付帯する々の鉄道に限って解説する。北アイルランド鉄道軌間アイルランド鉄道と同じ1600mmであり、そちらとの結び付きが強いためである。

基本データ
鉄道を意味する
言葉 
Railway(英語
Rheilffordd(ウェールズ) 
創業 1825年
ストックトンアンド・ダーリントン鉄道 
軌間 1435mm
営業キロ 17,052km[1]
電化キロ 3229km(AC25kV:50Hz
2035km(DC750V) 
複線化キロ 11,885km

概要

鉄道の発明により、人々はその土地から離れ、新しい人々や、物や思想に触れることが出来るようになった。イギリス世界で最も古くに蒸気機関車による鉄道が開通した、鉄道発祥の地である。しかし、鉄道近代化には立ち遅れ、信頼性は大きく落ち込んでしまった。その一方で産業革命遺産として各地で保存鉄道が残り、蒸気機関車と未だ手軽に触れ合えることは大きな魅となっている。

イギリスの鉄道の特徴としては、電化区間が少ないことが挙げられる。欧州々では営業キロの内半分以上が電化されていることが多い[2]が、イギリスは当てはまらない。ほとんどはディーゼル機関車気動車による列車である。この理由は定かではないが、イギリスでは架線が観を損なうので余り積極的に電化されないのではないか、とよく言われる。電化路線も40%ほどが第三軌条方式[3]である。HST[4]はあまり電化されていないイギリスならではの車両である。ただ、最近は環境に配慮して少しずつ電化していこうという動きが見られる。

路線はロンドンの18のターミナル駅から放射状に伸びている。

イギリス国鉄・ロゴマーク
イギリス国鉄ロゴマーク
ダブルアロー
[5]

イギリスの鉄道のサービス

イギリスの鉄道は25以上の鉄道会社によって地域別に運営されているが、発券システムは統一されているので列車がどの鉄道会社のものかを気にする必要はあまりない。料は1等、2等の区別はあるが、特急急行各駅停車の区別がく、総じて高めである。1等は2等の料の1.5倍ほど。

高めの運賃であるが、各種パスや事前予約による割引が豊富なため、うまく使いこなせばを安く済ませることができる。ただしややこしい。

イギリスの鉄道の仕組み

歴史」項の「民営化」の部、「イギリスの鉄道のこれから」の部でも述べるが、イギリスの鉄道網は日本の鉄道網とは異なり、「上下分離方式」が取られている。即ち、線路を保有している会社と列車を運行させている会社が異なる。

現在、イギリスの鉄道網の大部分を管理しているのはネットワーク・レール社という事実営の企業であり、事実が管理している。路線・設備の保守管理についてもネットワーク・レール社が行なっている。

一方、客や貨物の輸送業は民間企業が行なっている。客輸送はフランチャイズ制で交通局から地域ごとに競争入札で認可を受ける形になる。貨物輸送については大部分を4つの運行会社が行なっており、DBシェンカーDB Schenker)鉄道[6]が最大のものとなっている。その他に小規模な運行会社も存在する。

隣接国の鉄道との接続

イギリス欧州大陸フランスの間に存在するドーバー海峡中には世界一海底部の総距離が長い海底トンネルの「英仏海峡トンネル」があり、フランスベルギーとの直通列車が存在している。

アイルランドにおいては、北アイルランドベルファストからアイルランドダブリンを結ぶ国際列車エンタープライズEnterprise)」が存在している。

鉄道連絡も存在しており、イギリスハリッジ(Harwich)際港~オランダホークファン・ホランド(Hoek Van Holland)港を結ぶオランダとの鉄道連絡アイルランドへの鉄道連絡がある。

イギリスの鉄道と遅延

イギリスの鉄道は遅延がひどいことで有名である。発・到着の10分遅れは当たり前であり、30分以上遅れることもざらにある。平日休日ダイヤは極端に違い、休日に保線作業を行なっているため、突然運休になり振替バスが用意されたりする。イギリスの人々は寧ろ鉄道が遅れるのは当たり前で時刻表は単なる安、と考えているらしい。

"The wrong type of snow"(の間違ったタイプ:The wrong kind of snowとも)[7]鉄道が遅れた際の言い訳として有名である。

ロンドン市内の鉄道

ロンドンのターミナル駅

イギリス首都ロンドンにはロンドンステーショングループと呼ばれる18のターミナル駅がある。ターミナル駅が複数ある都市しくないが、ロンドンは群を抜いて多い。

鉄道狂時代(歴史項にて詳述)に作られた鉄道網はすべて民間資本が建設したものであった。その為に各鉄道会社は競ってターミナル駅を建設したのである。18のターミナル駅ロンドンの中心部を取り囲むようになっており、それぞれの間は地下鉄によって結ばれている。

きかんしゃトーマス」の原作汽車のえほん」には

ある日、ゴードンは、本鉄道機関車とはなしていました。

「おれさまがわかかったころ、ロンドンにいったことがある。は、キングズ・クロスっていうんだ。しっているかい?」

キングズ・クロスだって? ロンドンユーストンだよ」

その機関車がこたえると、ダックもくちをはさみました。

「そんなばかな! ロンドンパディントンだよ。ぼくはそこではたらいていたんだもの、まちがいないよ」

ミニ新装版「汽車のえほん」12巻「8だいの機関車P20より引用

と、機関車たちがロンドンはどこかについて言い争いをする場面がある。実は3台は自分の所属していた鉄道会社のロンドンだと言っており[8]、暗に自分の所属していた鉄道会社が一番であるという喩になっている。それぞれのターミナル駅は所有する鉄道会社の徴のようなものだったのだ。

ハリー・ポッターシリーズにおいてホグワーツ行きの特急が出る9¾番線で知られるキングズ・クロスやくまのパディントンパディントンなど、創作作品の舞台となって有名となったも多い。

2013年放送のアニメきんいろモザイク」の第1話では、大宮忍ホームステイ先であるアリスへ向かう際にパディントンよりHSTに乗した。その後、途中のスウィンドンと思われる)で別の列車乗り換えて、を迎えに来たアリス父親が待つケンブルで下している。

2011年開のアニメ映画けいおん!」では、放課後ティータイムの面々がロンドン卒業旅行へ出発し、終盤のライブシーンではチャリング・クロスが映っている。

ロンドン地下鉄・ロゴマーク
ロンドン地下鉄ロゴマーク

ロンドン地下鉄

ロンドン地下鉄London Underground)は各ターミナル駅の間を結んでおり、ロンドン市民には"the Tube"というあだ名で呼ばれている。これは文字通り管トンネルに由来している。

地下鉄電車トンネルの大きさすれすれに作られており、電車天井も丸くなっている。電化方式は世界でもしい第四軌条方式である[9]

総延長は400kmほど。ロンドン中心部と郊外を結ぶ路線も存在しており、ロンドン市民の足となっている。

ロンドン地下鉄の歴史

ロンドン地下鉄は、世界初の地下鉄である。1863年1月10日メトロリタ鉄道Metropolitan Railway)[10]が開業したことにより、その歴史は始まった。当時、ロンドン内の交通状態は行き交うや人々でを洗うようになっており、とても混雑していた。その解消のために鉄道の乗り入れは切望されていたが、ロンドン中心部にはだった建物が既に建っている状態でを作る土地がなかった。そこで地下鉄という発想が出てきたのである。

だが、当時は鉄道な動蒸気機関車であった。蒸気機関車の排煙をどうするか検討の末、運河を掘るように長い掘割のようなものを掘り、そこに蓋をしてしまう。と言う方式が取られた。これならば適当なところに蓋をしなければ、そこから煙を出すことができるのである。また、GWRの機関車技師長・ダニエルグーチ(Daniel Gooch)が開発した凝結装置(復装置)を機関車に取り付けた。これは煙を機関車サイドタンクに導き、排煙を抑える装置である。石炭ではなく、コークスを焚き、なるべく排煙を抑えようと努された。とはいえ蒸気機関車の煙は物凄いものだ。普通に煙たい。おまけに当時のホームは木製で、蒸気機関車から出た火の粉ホームに引火したりして頻繁に火災が起こり、乗客からの評判は悪いものであった。

それでもロンドン地下鉄は延伸を続けた。シールド工法により、更に地中深い所を掘れるようになり、1890年には電気機関車を用いたシティーアンド・サウス・ロンドン鉄道(City and South London Railway:現在ノーザン線)が開業し、世界初の電化された地下鉄となった[11]

当初は一般の鉄道と同じように様々な鉄道会社が地下鉄事業を行なっていたが、1933年公共機関としてロンドン客輸送委員会(London Passenger Transport Board:LPTB)が創設され、すべての地下鉄がLPTBに組み込まれることになった。現在ロンドン地下鉄ロンドン交通局(Transport for London)の下として運営されている。

イギリスの鉄道の歴史

目次

世紀 出来事
~19世紀 鉄道のはじまり / 蒸気機関車の誕生 / 鉄道狂時代 / ゲージ戦争 / 狭軌鉄道 / 北への競走
20世紀 ビッグ・フォー / 第二次世界大戦 / 国有化 / 保存鉄道 / ビーチング・アックス / 高速鉄道 / 民営化
21世紀 イギリスの鉄道のこれから

鉄道のはじまり

16世紀の半ばにはドイツイギリスなどのヨーロッパの炭鉱で木製のレールによる軌がすでに使用されていたという。

鉄道が大きく発達するきっかけになったのは言うまでもなく18世紀後半からの産業革命である。1769年にはジェームズ・ワット(James Watt)が新方式の蒸気機関を発明し、1793年にはL字の鋳製のレールが発明された。

当時イギリス要産物であった綿織物、その原料の綿の輸送のためにイギリス中の道路が整備され、による交通網が発達していた。また製鉄蒸気機関の発達のために石炭、鉱石の需要が高まり、その輸送の需要も高まった。重量のあるそれらを輸送するために運河や鉄道が数多く作られた。特に運河は地の多いイングランドでは大変有効な交通手段であり、数多くの運河が作られた。大規模な運河の建設ラッシュは「運河狂(Canal Mania)時代」と呼ばれた。

ところが、運河には大きな欠点があった。には渇し、には凍結して使用不能になってしまうのである。その為、運河による貨物輸送は非常に不安定なものであった。

1807年にはウェールズ世界初のによる鉄道オイスターマス鉄道(Oystermouth Railway)が開通する。まだまだ鉄道車両の動人力であった。だが、技術者たちは蒸気機関を動に用いれば格段に工業化が進むと確信していた。

蒸気機関車の誕生

1804年、リチャードトレヴィシック(Richard Trevithick)がとうとう軌上を走る蒸気機関車を発明した。ただし、飽きっぽかった[12]用の脆い鋳製のレールだったため、また、エネルギーを動として伝える機構に問題があったために実用化とはならなかった。1812年にはラック・アンド・ピニオン式の蒸気機関車サラマンカ号(The Salamanca)がミドルトン鉄道Middleton Railway)[13]を走った。サラマンカ号は初めて商業的に成功した蒸気機関車となった。

公共輸送を的とした鉄道としては1825年に開業したストックトンアンド・ダーリントン鉄道Stockton and Darlington Railway:以下S&DR)が世界初と言われる。S&DRを計画し、蒸気機関車ロコモーション号(Locomotion No.1)を製作したジョージスティーブンソン(George Stephenson)は「鉄道」と呼ばれるようになった。

だが、S&DRは今日鉄道とは違い、線路や敷地を所有しているというだけで、その線路を利用させて利益を得るという方式をとっていた。つまり、動や、客貨車は自前で用意しなければいけなかったのである。運河や道路で通行料をとって利益を得る、という方式と変わらなかったのだ。そのため、蒸気機関車列車が行き交う、というカオスな状況だったようだ。

1830年にはリヴァプールアンド・マンチスター鉄道Liverpool and Manchester Railway:以下L&MR)が開業した。この鉄道鉄道車両を走らせ、運賃を取って利益を得るという事が考えられていた。現在々が知っている「鉄道会社」の登場である。

L&MRにおいては列車の動蒸気機関車を使うか蒸気機関によりケーブルを動かして動とするか検討され、レインヒルトライアルRainhill Trials)という競走が行われた。結果、ジョージスティーブンソンとその息子ロバートスティーブンソン(Robert Stephenson)が制作した蒸気機関車ロケット号(Rocket)が勝利し、蒸気機関車の採用が決定された。スティーブンソン子は機関車だけではなく、橋梁などの施設の設計も担当した。鉄道など今までも作ったことがない。まさに試行錯誤であった。

そんなL&MRの記念すべき開業の日に不運トラブルが起きてしまう。来賓の大物政治家ウィリアムハスキッソン(William Huskisson)がロケット号に轢かれて死亡してしまったのだ。ハスキッソンはL&MRの開業に尽した人物であったが、何の因果世界初の鉄道死亡事故の犠牲者となってしまったのである。

幸先が良いとは言えないスタートを切ったL&MR。だが当時、世界に冠たる工業都市であったマンチスターから港のあるリヴァプールをつなぐL&MRはまさしくドル箱路線となり、イギリス中へ、ひいては世界中へと鉄道建設ブームをもたらすこととなった。

時代はイギリスが栄を極めた「ヴィクトリア時代」へと突き進んでいくこととなる。

鉄道狂時代

L&MRの成功は投資達の注の的となった。そう、「鉄道かる」のだ。強欲な投資達はこぞって鉄道に投資した。イギリス内には後の筍の如く鉄道が敷かれまくり、特に1840年代から50年代には路線長が急に、一挙に伸びた。や運河は全に時代遅れの交通手段となってしまったのだ。

この鉄道建設ブームは「鉄道狂(Railway Mania)時代」と呼ばれた。ピーク時の1846年には272の新鉄道会社の設立法案が可決され、1848年には総路線長が5127マイル(8251km)をえた。それまでイギリスの輸送の中心であった運河の総延長を抜いたのだ。

人々は鉄道会社の株券を買い漁った。鉄道国債と同じくらい安定したものだと思われていたのである。老若男女、貧富の差くたくさんの人が少なからず鉄道を所有していたと言われる。

だが、この鉄道建設ブームで作られた路線の大部分は全く秩序に作られたものであった。同じ区間に重複して線路が建設されたり、採算の見込みが全くない地域に路線を敷いたり、とにかく鉄道さえ敷いてしまえばかると言わんばかりだった。

イギリス議会自由放任義に基づき、これに特に規制は加えなかったが、安全上の問題から1840年に鉄道規制法を制定した。鉄道規制法は鉄道調院(HMRI:Her Majesty's Railway Inspectorate)[14]を設立し、事故の原因を調し、再発防止策を勧告することを定めた。鉄道調院は1840年8月7日ハルアンド・セルビー鉄道Hull and Selby Railway)で起きたハウデン(Howden)事故より活動を開始した。

1845年をイギリス鉄道の年間収入の総計は少しずつ落ちていった。乗客・荷の奪い合いとなってしまったのだ。ただし、運賃が安くなったことにより庶民が手軽に鉄道を利用することができるようになった。

1844年にダービー(Derby)を共用していたミッドランド・カウティー鉄道Midland Counties Railway)、ノース・ミッドランド鉄道NorthMidland Railway)、バーミンガムアンド・ダービージャンクション鉄道(Birmingham and Derby Junction Railway)がミッドランド鉄道Midland Railway)として合併した。イギリス史上最初の鉄道会社の大合併と言われる。3社は熾な乗客の争奪戦を繰り広げていたが、共倒れとなる前に合併することを選択したのである。この合併に尽したのがノース・ミッドランド鉄道役員のジョージハドソンGeorge Hudson)。彼は「鉄道王(Railway King)」[15]あだ名で知られることになる。

ジョージハドソン鉄道の技術については素人で、バリバリの投資であった。1830年代から鉄道の買収を続け、1844年には1016マイル(約1635km)の鉄道を手中に収めていた。これは当時のイギリスの鉄道の半分ほどに当たる。国会議員にも当選し、「鉄道王」として名誉の絶頂を誇っていた。ところが、鉄道狂時代による熱狂的な鉄道バブルがはじけたことによって彼の権勢は落してしまう。さらに1849年にはインサイダー取引、粉飾決算、不当な新発行などの詐欺行為が明るみとなり、全に凋落してしまった。

鉄道バブルの崩壊は株式市場の崩壊を招き、鉄道に投資した人々はすべてを失ってしまった。しかし、イギリスの鉄道網は整備され、手軽な旅行ができるようになった。鉄道狂時代は確かな、そして大な功績を残したのである。

ゲージ戦争

当時、鉄道軌間ゲージ)は北イングランドの炭坑鉄道で用いられていた4フィート8½インチ1435mm)の軌間が多く用いられていた。これを積極的に採用していたのがスティーブンソン子である[16]

これに異を唱えた者がいた。グレート・ウェスタン鉄道Great Western Railway:以下GWR)の技師長であったイザムバードキングダムブルネルIsambard Kingdom Brunel)[17]は「列車ってもっと速く出来るんじゃね? だったら1435mmとか狭すぎて安定しねーし」と、高速運転には7フィート¼インチ2140mm)のブロードゲージ(広軌)が有利だとした。また、イースタン・カウティー鉄道Eastern Counties Railway:以下ECR)の技師長・ジョン・ブレイスウェイト(John Braithwaite)[18]は「いくらなんでも7フィートは大きすぎるだろJK」ということで5フィート(1524mm)の軌間を採用した。

だが、すでに軌間1435mmのものが流となっていた。軌間1435mmの鉄道と異なる軌間鉄道で、乗客の乗り換え、積荷の乗せ替えの問題が生じていた。接続での乗り換えを人々は疎み、イギリス議会もこれを重く見た。

とうとうブレイスウェイトのECRは大きくなっていた世論の波を止めることが出来ず、1844年に1435mmの軌間を採用した。議会軌間委員会を設け、1846年に「1435mmの軌間を標準軌とし、これ以外の軌間鉄道認可しない」とした軌間法を制定した[19]今日日本新幹線にも用いられている標準軌の誕生であった。

しかし、ブルネル率いるGWRはこれに挫けない。しぶとく広軌列車を走らせ続けた。ブルネルの走らせた広軌の鉄道は確かに速く、乗り心地も良いものであった。当時、1435mm軌間最高速度は時速90km/hほどであったのに対して、ブルネル軌間最高速度100km/hほどであり、現在高速鉄道のはしりと呼べるかもしれない。それでも広軌の列車の需要はどんどんと減少し、ブルネルが死去した1859年からは徐々に三線軌条としたり、標準軌への軌を行なったりしていった。乗客は乗り換えが必要な列車より、直通の列車の方を好んだのである。1892年5月20日をもってGWRは広軌列車の運転をやめ、すべての路線での標準軌への軌を余儀なくされた。

狭軌鉄道

イギリス西部ウェールズには石炭や鉱石が多く埋蔵されており、採掘が盛んであった。特にウェールズ炭と呼ばれる石炭は世界最高レベルの質の良さで知られ、イギリスの有用な外貨獲得の一つであった。

ウェールズでは急峻な地形が多いため、標準軌より狭い狭軌(ナローゲージ)の線路が敷かれ、積み出し港や運河へと輸送されていた。動重力が用いられていた。決して馬鹿にできるものではなく、高い山から輸送するには重力は非常に有効だったのだ。ただ、高い場所に貨車を上げるのには人力が使われており、とても効率が良いとは言えなかった。

きかんしゃトーマス」の原作汽車のえほん」では重力鉄道の描写がある。

「(前略)とつぜん、ガタガタ、ゴーッとにもつをつんだ、貨車のれつが、はしってきたんだ。

ぼくが びっくりして、『機関車がついてないじゃないか』 っていうと、さぎょういんがわらっておしえてくれたんだ。

重力でおりてきたんだよ。でも、重力っていうのは、くだるときにしかやくにたたないんだ。
だからからの貨車をひっぱりあげるときには、きみのような機関車がひつようなんだよ』

ミニ新装版「汽車のえほん」20巻「100さいの機関車P12より引用

石炭や鉱石の需要は産業革命により高まり、また、ウェールズにも標準軌鉄道が続々と乗り入れてきたことによってウェールズ狭軌鉄道にも引用文の通り蒸気機関車を導入することがめられた。1862年にはノルウェーにて3フィート6インチ1067mm)の狭軌鉄道[20]が成功していた。だが、ウェールズの炭鉱鉄道軌間はそれよりも狭い1mにも満たないものが多かった。

1860年、ウェールズスレート(岩)の輸送をしていたフェスティニオグ鉄道Ffestiniog Railway)[21]では、蒸気機関車を走らせることを計画していた。フェスティニオグ鉄道軌間は1フィート11½インチ(597mm)であった。マネージャーであり、技師であったチャールズイーストン・スプーナー(Charles Easton Spooner)[22]は甥のチャールズ・ホランドCharles Holland)と共に狭軌の小さな蒸気機関車を設計した。この設計図はジョージイングランドGeorge England)社に持ち込まれ製造された。1863年には蒸気機関車[23]フェスティニオグ鉄道を走りだした。だが、まだスレートを運ぶのみで客扱いは出来なかった。先述の軌間法により、標準軌以外の鉄道が客扱いをすることは禁じられていたのである。

イギリス商務省はフェスティニオグ鉄道の客扱いの認可申請を受けて調に乗り出した。鉄道察官は施設の不備などを厳しく摘したが、狭軌鉄道は非常に有用なものであり、客扱いも認められるべきだとの結論を出した。

1865年1月5日、とうとうフェスティニオグ鉄道を客が走ることとなった。フェスティニオグ鉄道に続けとばかりに、ウェールズではタリスリン鉄道(Talyllyn Railway)やコリス鉄道Corris Railway)など軌間が1m未満の狭軌鉄道が次々と蒸気機関車を走らせ、開通させた。ウェールズの石炭・鉱石の輸送は格段に進歩したのである。また、この時培われた狭軌鉄道ノウハウイギリス植民地鉄道を敷設するのにとても役立った。

北への競走

乱立していた鉄道会社は鉄道狂時代の終焉の後、買収・合併などにより整理・統合が進み、いくつかの較的大規模な鉄道会社となった。

当時はヴィクトリアの栄たけなわの時代であり、鉄道はその発展を支えていた。鉄道の保安技術が大きく発展したのはこの時期であるが、その一方でそれぞれの鉄道会社は如何に利益を上げるか、集客率を上げるかで他社との間で熾な争いを繰り広げていた。その徴とも言える出来事が1880年代から90年代に起きた通称「北への競走(Race to the North)」である。

イングランド首都ロンドンからスコットランド首都エディンバラを結ぶ路線はブリテンの背と呼ばれるペナイン山脈を挟むように、東西に1本ずつ存在している。東側の路線はイーストコース本線East Coast Main Line東海岸本線)と呼ばれ、ロンドンキングズ・クロスからヨークまでがグレートノーザン鉄道Great Northern Railway:以下GNR)が走っており、ヨークからエディンバラまではノースイースタン鉄道North Eastern Railway:以下NER)が走っていた。2つの会社は協して「フライング・スコッツマン(Flying Scotsman)」[24]という急行列車を運行させていた。

一方、西側の路線はウェストコース本線West Coast Main Line西海岸本線)と呼ばれ、ロンドンユーストからロンドンアンド・ノース・ウェスタン鉄道London and North Western Railway:以下LNWR)がカーイルまで、カーイルからエディンバラまでをカレドニア鉄道(Caledonian Railway)が結んでいた。この2社も急行列車を運行していた。

競走の発端は1887年11月フライング・スコッツマンに三等連結されたことだった。東海線はロンドンエディンバラ間を9時間で、西海線は10時間で結んでおり、所要時間としてはフライング・スコッツマン若干の分があった。それでも西海急行には三等連結されており、労働者階級に人気があった。フライング・スコッツマンは三等連結していなかったのである。ところが、フライング・スコッツマンにも三等連結されたことにより西海急行の乗客は徐々に徐々にとフライング・スコッツマンに奪われてしまったのだ。

西海急行を運行するLNWRとカレドニア鉄道1888年6月になると対策を講じた。重連運転を開始したのだ。これにより所要時間が1時間短縮され、フライング・スコッツマンと互に渡り合えるようになった。ところがフライング・スコッツマンを運行するGNRとNERも黙ってはいない。食のための停時間を短縮するなどして対策した。この果てしない競争はだんだんと泥沼化していき、7月に入ると時刻表は連日書き換えられ、連結する客の数も減らされていった。停時間も短くなったことにより、乗客の不満は爆発寸前となった。とうとう両者は8月に手を打ち、フライング・スコッツマンが7時間45分、西海急行が8時間で走ることになった。この競走は終焉した。

しかしそれから7年後の1895年、再び北への競走は勃発した。今度はエディンバラより更に北にある都市アバディーン(Aberdeen)への競走であった。アバディーンへの列車は、東海線がGNR、NERにノースブリティッシュ鉄道North British Railway)を加えた3社で運行されていた。西海線は変わらずLNWRとカレドニア鉄道の2社である。

アバディーンへの路線の距離西海線がグラスゴーを経由すれば東海線にべて分があった。東海線はフォース湾とテイ湾を大きく回しなければならなかったからである。ところが、東海線が2つの湾にを掛け、所要時間を大きく短縮してしまった。ここに再び過な競走が始まってしまったのである。

西海線が夜行急行の所要時間を短縮すると東海線も同じ時間に出発する夜行急行の所要時間の短縮をした。だんだんと時刻表上の時間より着するようになり、とうとう7時20分着の夜行列車6時25分に到着するようになってしまった。さらに、客が2両しか連結されなくなり、停時間が極端に削られた。乗客は夜行列車があまりにも速く到着してしまうのでで途方に暮れてしまった。乗客の利便などまるで無視速さのみが競われた。

8月21日東海線の列車4時40分着を実現した。これによって東海急行は競走の中止を宣言した。負けたままで終われない西海急行8月23日、走行中にの補給を行うなど苦心してアバディーン4時32分着を実現した。これにより、両者は協定を結んだ。東が10時間25分、西が10時間30分の所要時間を守ることになり、北への競走はようやく終止符が打たれた。

1896年7月13日、プレストンPreston)にてグラスゴー行きの急行列車が脱線転覆事故を起こしたことによって、世論は安全を鉄道会社にめるようになった。

ビッグ・フォー

1914年になり、第一次世界大戦が勃発すると鉄道網は政府の管理下に置かれた。数多くある鉄道会社が一時的にとは言え合併状態になって利点も生じた。戦後経済が疲弊し、経営状態が危機的な鉄道会社も現れ始めた。イギリス議会では鉄道網の有化も検討されたが、鉄道事業者や政府の反対もあり、実現には至らなかった。

そこで、1921年鉄道法によって123鉄道会社が統合され、

の4つの鉄道会社に集約された。これを四大鉄会社という。通称「ビッグフォー(Big Four」の誕生である。ビッグフォーは1923年に発足した。

1925年には総路線長はピークを迎え、約3万2000kmを数えた。イギリス鉄道黄金時代がやってきた。当時、技術準もサービス準もイギリスの鉄道は世界最高レベルのものだったのだ。統合された事により、鉄道会社間の争いは沈静化するかに思われた。が、サービス準や高速化の争いはなおも続けられた。LMSホテルチェーンを経営して乗客の利便を図ったし、LNERはとにかく車両を高速化して優した。GWRは販売戦略で乗客を惹きつけようとし、SRは所管する地域が狭いことを活かして路線の大部分を第三軌条方式で電化し、電車を走らせた。この通り、4つの鉄道会社はそれぞれ個性を持っていた。

特にLMSとLNERはルートが違うだけで的地は同じという路線が多かった為、高速化が(「北への競走」程ではないにしろ)競われた。例えば、LNERは1935年からクラスA4蒸気機関車を建造した。このクラスA4蒸気機関車4468号機「マラード」[25]1938年7月3日に時速126マイル(約202km)を記録し、蒸気機関車による世界最高速記録した。これもLMSとLNERの争いのたまものである。

イギリスの鉄道はまさに絶頂期を迎えていた。だが、盛者必衰の喩えもある。1929年に起きた世界恐慌により、ビッグフォーの経営は大きな打撃を被った。しかし、それより手痛かったのは、この頃、すでに自動車による道路輸送が徐々にを増していたことだ。各鉄道会社は政府の厳しい規制に苦しんだ。道路輸送は当時、新しい産業で規制は緩いものであったが、鉄道輸送は公共事業であるとして、運賃などが統一されていたのだ。鉄道輸送は道路輸送に対して不利な戦いを余儀なくされ、廃線となる路線が多くなった。

第二次世界大戦

1939年9月1日ドイツへの宣戦布告の2日前であった。鉄道網は再び政府の管理下に置かれた。鉄道は軍需品や兵士の輸送、さらに疎開など様々な任務を与えられた。イギリス蒸気機関車は貨物用でもない限り鮮やかな色が塗られていた[26]。しかし、掃除の手間を省くために、また、ドイツ軍標とならないように全ての蒸気機関車く塗られた。

ドイツ空軍によるブリテン爆撃が始まると、鉄道は格好の標的となった。ロンドンやコヴェントリーなど、重要な都市しい爆にされ、付近の線路は寸断された。しかし、ドイツ軍の凄まじい爆の中でもロンドンキングズ・クロスを発するLNERの急行列車フライング・スコッツマン[27]は、午前10時の発時刻を毎日守り通した。ロンドン地下鉄襲から身を守るシェルターとして活用された。

1940年ダンケルクの戦いからの撤退作戦ダイナモ作戦)においても鉄道は大きな役割を果たした。イングランド南部の港へと命からがら引き上げてきた30万人以上の兵士を620本の列車で連れ戻したのだ。ロンドン~ドーバー間のでは兵士のための食料が用意され、がさながらファストフード店のようだったと言われている。

イングランド南部前線に位置するSRは、軍需品を運ぶため貨物輸送の扱い量が普段の6倍にも膨れ上がった。増加していく貨物輸送は絶望的な機関車の不足をもたらした。SR主任技師のオリバー・バリードOliver Bulleid)はSRQ1蒸気機関車[28]を製造してこれに対策した。40両のQ1サザン鉄道の貨物輸送の救世主となった。

イングランドケント州にある軌間15インチ381mm)のロムニー・ハイス・アンド・ディムチャーチ鉄道Romney Hythe and Dymchurch Railway:RH&DR[29]も沿の補給品、兵士の輸送やパトロールにあたった。人間の背丈よりも小さな装甲列車ドイツ軍爆撃されながら必死に走っていた。

この通り前線の近くでは大きな鉄道から小さな鉄道までが全て戦争の遂行のために駆り出されたが、それ以外の鉄道では戦時下の緊感はあったものの特に被害もなく穏やかであった。しかし、投資や保守は減少し、最低限の保全しか行われなくなってしまった。設備や車両は荒した。

国有化

第二次世界大戦で受けた損により、民間企業によって鉄道網を維持していくのは不可能であった。また、第二次大戦前後での道路航空などの発達によって鉄道事業は需要が減退していた。設備・車両の荒に、経営悪化が追い打ちをかけたのだ。イギリス議会では労働党・クレメント・アトリーClement Attlee内閣が打ち出した重要産業有化の政策にのっとり、1947年運輸法が可決された。即ち、ビッグフォー有化である。

1947年12月31日をもってビッグフォーは消滅し、1948年1月1日イギリス運輸委員会(British Transport Commission:BTC)が誕生した。鉄道部門の商標British Railways(BR:イギリス国鉄[30]と制定された[31]

BRではイギリスの鉄道網を6つの管理局(リージョン)として分けた[32]

新しい区分にスコティッシュ管理局が出来ただけで実は四大鉄会社時代とそれほど変わらない。各管理局の独自権限は強いものであったが、全な設備・車両の標準化・均化の動きは確実に見られた。BR発足当時は戦争被害からの復に手一杯で、設備・車両近代化は遅々として進まなかった。1950年代初頭には少額ながらも利潤を生むようになったが、これは近代化を棚上げした故のものだった。この黒字は僅かな期間のもので、イギリス国鉄はすぐさま赤字に転落した。

この時点でイギリスの鉄道は電化や新車両導入などの近代化の点で他のヨーロッパ鉄道べて大きく遅れをとっていた。大陸ヨーロッパ、特にドイツフランスなどでは戦争によって鉄道網が大きな打撃を受けていた。その為、実質的に0から鉄道網を再構築する必要があり、近代化がスムーズに成功した。ところが、幸か不幸かイギリスの鉄道の戦争被害はそこまで重大なものではなかった。確かに前線であったイングランド南部や、爆があった都市部の鉄道網は大きく被害を受けていたが、前述通りそれ以外の地域ではそれほど被害を受けなかった。結果、近代化の妨げとなってしまったのである。

1954年イギリス運輸委員会によって道路輸送に奪われた鉄道輸送を回復するための近代化計画が発表された。

が計画には盛り込まれていた。信頼性・安全性の向上を謳い、近代化計画には12億4千万ポンドが投じられることになった。1956年政府白書1962年にはイギリス国鉄赤字は解消されるだろうとした。

が、そう上手く行くものでもない。イギリス運輸委員会は全に読み違えていた。当時、既にトラックによる道路輸送が流になっており、貨物需要が落ち込んでいたにも関わらず貨物ターミナルや貨物車両に巨費が投じられた。また、性急に蒸気機関車からディーゼル機関車への置き換えを行おうとしたがために開発期間が取れず、新ディーゼル機関車の初期不良が頻発した。ディーゼル機関車はただゴロゴログルグルと唸るばかりで全く役に立たなかった。そのせいでこの頃製造されたディーゼル機関車は短い間でとなってしまったものが多い。

1960年代末までに蒸気機関車は全され、多くの路線が止された。それにも関わらずイギリス国鉄赤字は解消されなかった。イギリス運輸委員会の近代化計画は大失敗に終わった。

保存鉄道

イギリスの多くの鉄道ファン近代化計画失敗への失望と共に蒸気機関車止への危機感を抱いていた。

1950年、産業史のL.T.C.ロルト(L.T.C.Rolt)は産業革命遺産を保存することを考えていた。そこでL.T.C.ロルトをつけたのが有化もされず廃線寸前の憂きとなっていたウェールズ狭軌軽便鉄道タリスリン鉄道であった。L.T.C.ロルトは「汽車のえほん原作者のウィルバート・オードリーWilbert Awdry)牧師など多くの鉄道ファンの助を得て、タリスリン鉄道の存続を模索した。保存はしたいが利益は見込めない。そのため保存協会を立ち上げ、沿線住民や鉄道ファンの手によりボランティアにより鉄道運営していくことに決めた。沿線のゴミ拾い・保線、駅員・切符売りはもちろんのこと、機関士や車両整備に至るまで全てが給のボランティアなのである。世界初のボランティアによる保存鉄道(Heritage railway、Preserved railway:遺産鉄道とも)の誕生であった。

タリスリン鉄道については当該項に任せるが、タリスリン鉄道の成功は保存鉄道運営方法の礎となった。続いて1948年廃線になった先述のフェスティニオグ鉄道1954年ボランティアの手により復活し、少しずつ保存運動の芽が広まっていった。だが、これらは狭軌鉄道であった。標準軌の鉄道を保存していくには、より高いコストや人手が必要で難しいことだと思われた。

だが1960年、その壁を打ち破ってイングランド南部ブルーベル鉄道Bluebell Railway)[33]世界初の標準軌の保存鉄道として誕生した。ブルーベル鉄道はもとイギリス国鉄サザン管理局所管の鉄道で、1958年廃線となった区間であった。当初、路線の持ちイギリス運輸委員会はブルーベル鉄道保存協会への路線の譲渡に難色を示した。「が管理している路線は国家財産であり、民間に譲渡していいのか」という問題があったのである。ブルーベル鉄道保存協会は、協会を会社組織にすること、イギリス運輸委員会は路線を年2250ポンドで保存協会へ貸与することで合意した。ブルーベル鉄道発足当初の路線長はたった5マイル8km)であったが、徐々に買増しを続けて現在は9マイル(14.5km)の路線を保有している。

ブルーベル鉄道が標準軌の鉄道を保存したことでイギリス内やさらに外でも保存活動が盛んになった。後述するビーチング・アックスにより更にイギリス国鉄の路線が止になり、保存鉄道も増加した。現在イギリスでは100える保存鉄道が存在しており、蒸気機関車はとても身近なものとなっている。沿線住民にはレジャー施設として、鉄道ファンには鉄道と触れ合うことの出来る施設として欠かせないものであり、イギリスでは休日に保存鉄道へ行ってボランティア活動に従事する人が多くいる。

ビーチング・アックス

近代化に大失敗したイギリス運輸委員会は1962年運輸法により解体され、鉄道部門が1963年1月1日イギリス国鉄委員会(British Railways Board)として分割された。

イギリス国鉄赤字を解消しようと時の国鉄総裁・リチャード・ビーチング(Richard Beeching[34]は「イギリス国鉄の再建(The Reshaping of British Railways:ビーチング・レポートと呼ばれる)」という報告書を発表した。ビーチング・レポートは当時18000マイル28968km)に及ぶイギリスの鉄道の内、収益の低い6000マイル(9656km)の路線を止し、利用者の見込めない小は全て止すべきだとした。ビーチング・レポートでは「路線・止」とともに「幹線の電化」などの近代化も提案されていたが、政府は投資よりも歳出削減に興味を示した。

この大規模な提案をマスメディアはビーチング・アックス(Beeching Axe:ビーチングの)として報道した。イギリス国鉄発足から既に3000マイル(4828km)以上の路線が止になったというのにさらに止を進めるというのだ。鉄道止されると公共交通機関を失ってしまう地域からはしい抗議批判が巻き起こった。イギリス政府バスによる代行を約束し、ビーチング・アックスは実行されることとなった。1963年から1974年にかけて4000マイル(6437km)以上の路線と3000以上の止になった。

が、ビーチング・アックスによる路線・止はイギリス国鉄赤字を食い止めるには至らなかった。むしろ全に鉄道輸送に引導を渡してしまう結果となり、イギリス国鉄の経営状況はさらに悪化した。バスによる代行は単に跡をつなぐバス路線を運行したというだけであって、集落から離れたところにがあった地域では大変不評であった。収益を上げられるような路線は少なく、ほとんどのバス路線が数年で止されてしまった。更に、鉄道くなったことで道路輸送の需要が多くなり、道路交通麻痺状態になってしまった。

ビーチングは1965に年「幹線ルート開発(The Development of the Major Railway Trunk Routes:第二ビーチング・レポートと呼ばれる)」という報告書を発表したが、ほとんどの支線を止して幹線のみを残すべきとしたこの報告書はやりすぎであるとして実行されなかった。同年、ビーチングは国鉄総裁を辞任した。

高速鉄道

1964年10月1日イギリス国鉄を震撼させる出来事が起きた。極東の日本において標準軌で常時時速200kmを出せる新幹線[35]が開業したのだ。世界初の高速鉄道であった。さらにフランスイタリアドイツなどが高速鉄道開発スタートさせた。近代化に立ち遅れたイギリス国鉄はこれを見て見ぬふりをするわけには行かなかった。仮にも鉄道発祥の意地がある。イギリス高速鉄道開発スタートさせた。

そこで立ち上げたのがAPTHSTの2つの高速鉄道プロジェクトである。

詳しくは当該項に任せるが、APTは大失敗し、HSTは成功を収め、現在イギリスでもインターシティ125として広く用いられている。

1980年代末には電気機関車を用いたインターシティー225開発されたが、イギリスは予算不足で高速新線の開発が出来ず、結局はこれらを規格の低い在来線[36]で走らせるしかなかった。

1994年5月ドーバー海峡の地中を刳り抜いた英仏海峡トンネルが開通し、同年11月14日イギリスフランスイギリスベルギーを高速列車ユーロスター」が結ぶことになった。パリロンドン間を結ぶ路線は画期的で英両国の悲願であったが、フランス側には不満があった。フランスイギリスベルギーの三カ共同開発による車輌Class373電車[37]フランス側では時速300kmの走行が可であったが、イギリスではまだ高速新線が開通しておらず、更にイングランド南部第三軌条方式による電化だったため、時速160kmまでしか出せなかったのである。

これを受け、当時のフランスフランソワ・ミッテラン(François Mitterrand大統領イギリスジョン・メージャーJohn Major首相に皮を飛ばした。

ミッテラン( ´_ゝ`)<イギリスの鉄道がフランスみたいに近代化されてたらもっと速かったのに

メージャー(;`Д´)<ぐぬぬ

因縁ある隣フランスにこんなことを言われたのでは黙っていられない。とうとう2003年に高速新線・CTRLChannel Tunnel Rail Link)の英仏海峡トンネルイギリス出口からフォーカム・ジャンクションFawkham Junction)までの74kmが開通した。イギリス初の高速新線だった。2007年にはフォーカム・ジャンクションからロンドン・セント・パンクラスまでが開通し、同年11月14日にはとうとうロンドンまで高速新線が走ることになった。これにより、パリロンドン間は2時間15分で結ばれた。CTRLブランド名はHS1(High Speed 1)となった。

民営化

1970年代末に誕生した「鉄の女」こと保守党マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の内閣イギリス国鉄の経営努満足しなかった。

1982年イギリス国鉄は下部組織を地域別の管理局から、扱う業務によって5つの部門に分割した。 

保守管理は新会社の「British Rail Maintenance Limited(BRML)」が受け持った。

サッチャー政権は多くの営事業を民営化したが、イギリス国鉄に関しては早急な民営化は困難としてホテルや連絡など付帯事業を売却した以外は民営化を行わなかった[38]

1988年にはロンドン近郊のクラッパム・ジャンクションClapham Junction)[39]にて3台の通勤電車が衝突し、35名の死亡者・500名の負傷者を出したクラッパム・ジャンクション事故が起きた。この事故によりATP(自動列車防護装置)の導入が勧告されたが、赤字体質のイギリス国鉄にはとてもそんな余裕はなく、棚上げされた。

1990年に誕生した保守党ジョン・メージャー内閣[40]イギリス国鉄の民営化を計画した。1992年総選挙では保守党国鉄民営化を約として掲げ、選挙勝利した。メージャー政権はビッグフォー復活し、1993年鉄道法を成立させて1994年イギリス国鉄分割民営化が実行された。

分割民営化EU流だった線路・施設・その他のインフラと輸送事業を分離させる上下分離方式が取られた。当初インフラはそのままで保有することが想定されたが、結局インフラ部門も民営化することとなり、線路保有会社「レールトラック(Railtrack)」にインフラが受け継がれた。レールトラック社が運輸事業者に線路や施設を貸し出す、という方式である。路線の保守をする会社は別に分割された。

一方、列車部門・貨物列車部門は分割して民間に売却された[41]車両のみを保有して運輸事業者に車両を貸し付けるリース会社も設立された。民営化当時は運輸事業者に多額の補助が拠出されており、国鉄時代よりも却って負担が多いほどであった。しかし、徐々に乗客数は増え、1950年代後半のレベルまで上昇し、確実に利益を出すようになっていた。1997年に誕生した労働党トニー・ブレアTony Blair内閣鉄道の再有化を検討しなかった。

だが、大きな落とし穴があった。1997年に7人が死亡したサウソール(Southal)事故1999年に31人が死亡したラドブローク・グローブ(Ladbroke Grove)事故が発生し、鉄道を機別に分割したことが安全や保守作業に悪を与えたのではという摘が出てきた。とどめは2000年に4人が死亡したハットフィールド(Hatfield事故[42]であった。ハットフィールド事故の原因は老朽化したレールを交換していなかったことが原因であり、乗客の不信感はピークに達した。国鉄時代にだましだまし設備を使用してきたツケが回ってきたのである。

レールトラックは多額の緊急の保守点検費用と賠償を支払わざるを得なくなり、経営は全に破綻してしまった。2001年10月政府が資供与を拒否するとレールトラックは破産手続きをとった[43]

これが意味するのは、即ち「民営化の失敗」であった。

イギリスの鉄道のこれから

レールトラック社の破綻により政府早急鉄道インフラ部門の再建を迫られた。

2002年10月。配当的としない保有限会社としてネットワーク・レール(Network Rail)が設立された。ネットワーク・レールはレールトラックの事業を引き継ぎ、さらに保守管理部門の会社を下に入れていった。ネットワーク・レール社は民間企業とされているが、事実営であり、イギリスの鉄道網は再び(事実上)政府の管理に置かれることになった。

と、この通り第二次世界大戦以降のイギリスの鉄道政策は裏、失敗失敗の連続であったが、ネットワーク・レール社は確実に業績を伸ばしており、これからが期待される。それに、列車運行部門の各企業は競走の中で切磋磨し、乗客へのサービスはやはり確実に良いものになっている。

HSTを見れば分かる通り技術的に劣っているわけではない(英国面はある)。また、日立製作所が製造したClass395電車など、高速鉄道では積極的に新車両を導入している。また、鉄道客が盛り返してきていることからビーチング・アックスによる止路線が徐々に復活したりしている。

とかくイギリスの鉄道は老朽化した設備や近代化が遅れた保安設備、幹線の非電化が問題であり、特に老朽化は深刻なものとなっている。中には1830年代の鉄道初期に建造されたような橋梁トンネルが未だに使用されている箇所もあり、それらはイギリスの鉄道の大きな遺産であり泣き所にもなっている。現在、設備の更新修繕、電化が進められているが、予算不足により遅滞している地域もあるという。

これら大きな課題を乗り越えて、イギリスの鉄道が再び黄金期を迎えることを期待しよう。

イギリスの鉄道と日本の鉄道

注意 この記事は、概ねグレートブリテンの事柄について書かれていますが、
この項では日本の事柄についても触れます。

イギリスのお雇い外国人

日本の鉄道が開業したのは明治5年(1872年)9月12日による。グレゴリオ暦では10月14日)。有名な鉄道唱歌の一節にもある新橋駅横浜駅間が本開業したことによりその歴史は始まった。詳しくは「日本の鉄道」項を参照して欲しいが、この時日本の鉄道敷設を導したのはイギリスからのお雇い外国人たちであった。

日本の初代鉄道建築師長であったエドモンド・モレル(Edmund Morel)は明治3年(1870年)3月の来日後、留付近の測量を開始し、本来、イギリスから材のものを輸入する予定であった木を森林の豊富な日本では産木材で木をまかなうほうが良いと助言したり、民部大蔵大輔大隈重信鉄道頭・井上勝と相談の上、コストを抑えられる1067mm軌間を導入するなど日本の鉄道明けに向けて日々尽していた。しかし、モレルは来日以前にを患っていたと言われ、明治4年(1871年)年9月(新11月)、日本でこの世を去った。30歳の若さであった。現在横浜・山手の外国人墓地にはモレルの亡骸が眠っている。

また、リチャードフランシストレヴィシック(Richard Francis Trevithick)、フランシスヘンリートレヴィシック(Francis Henry Trevithick)の兄弟日本で活躍したお雇い外国人である。姓を見れば分かる通り、蒸気機関車の発明者「蒸気機関車」ことリチャードトレヴィシックの血縁である。リチャードトレヴィシックの孫である二人はリチャードトレヴィシックの子である父親フランシストレヴィシック(Francis Trevithick)が北部管区技師長を務めたLNWRにて鉄道技師としての腕を磨いていた。フランシスヘンリー[44]1876年に来日し、新工場汽車監察方を務め、信越本線横川駅軽井沢駅間(横軽)の急峻なを走る日本初のアプト式軌の敷設を導し、1893年4月に開通させている。

リチャードフランシスより12年遅れて1888年に来日した。神戸工場汽車監察方を努め、日本初の蒸気機関車・860形蒸気機関車制作

ウォルター・マッカーシースミス(Walter Mackersie Smith)は日本からの帰後、イギリスで功績を残したお雇い外国人である。1874年に来日後、日本においては神戸工場汽車監察方に就任。軸配置0-6-0の貨物用蒸気機関車7010形を4-4-0に改造し、同時に輸入した5130形の予備の部品を使って7100形を更に改造。2両の客用機関車5100形を制作している(とんでもねー魔改造である)。スミス1878年にイギリスに帰し、1883年、LNERに入社。3シリンダー、4シリンダーの二種類の複式蒸気機関車開発し、日本の鉄道史のみならず、鉄道技術史に名を残している。

英国鉄道ときかんしゃトーマス

イギリスの鉄道を一番手軽に垣間見れる創作作品が「きかんしゃトーマス」及びその原作の「汽車のえほん」であろう。原作者のウィルバート・オードリー牧師は筋入りの鉄ちゃんリアリティのある創作を心がけた。「きかんしゃトーマス」では子供向けにと省略されている部分が多いが、「汽車のえほん」ではとんでもなくマニアック英国鉄道ネタが満載されている。

汽車のえほんで起こった一見突拍子もいような事故はほとんどがイギリスで実際に起った事故元ネタとしたものだし、1948年イギリス国鉄として鉄道網が有化された際には、舞台となるソドー島鉄道有化された旨が書いてある(3巻「赤い機関車ジェームス」にて)。

また、オードリー牧師が汽車のえほんシリーズを執筆し続けた理由には保存鉄道への援助活動といった側面も大きく、タリスリン鉄道ブルーベル鉄道車輌だとシティオブ・トルーロー(City of Truro)[45]フライング・スコッツマン[46]などが実名で登場する場面がある。しかもオードリー牧師は本の売上の一部を保存鉄道に寄付していた。

イギリスの鉄道と切っても切れないのが「きかんしゃトーマス」「汽車のえほん」なのである。イギリスの鉄道についての知識を持ちあわせてから見ると、より物語が深く、面く見えたりするかもしれない。

国内の創作作品に登場するイギリスの鉄道

関連動画

国鉄時代

民営化後

高速鉄道 High Speed 1

ロンドン地下鉄

保存鉄道・保存機関車

その他

MAD

関連コミュニティ

関連項目

脚注

  1. *営業キロ・電化キロ・複線化キロデータはぎょうせい「最新 世界鉄道」より。営業キロソースによって違うが2万kmから1万5千kmの間くらい。
  2. *オランダドイツスイスオーストリアイタリアスペインスウェーデンなどでは路線の過半数以上が電化されている(ぎょうせい「最新 世界鉄道」より)。
  3. *イングランド南東部では架電車線方式ではなく、第三軌条方式によって電化されている。
  4. *変態紳士イギリス国鉄が創りだした世界最速のディーゼル機関車による高速列車。「HST(イギリス国鉄)」項を参照。
  5. *後述通り1969年に導入されたイギリス国鉄ロゴマークである。現在はイギリスの鉄道運営会社の代表団体・アソシエーション・オブトレイン・オペレティング・カンパニーズ(Association of Train Operating Companies:ATOC)のブランド・「ナショナル・レール(National Rail)」のロゴマークとなっている。い話が日本でいう在来線マークである。
  6. *西ドイツ国鉄を前身とするドイツ鉄道(Deutsche Bahn)下の会社。ドイツ鉄道ヨーロッパでも有数の輸送規模を誇る。DBシェンカー鉄道の前身はイングリッシュ・ウェルシュ・スコティッシュ鉄道English, Welsh and Scottish Railway:ちなみにアメリカ資本であった)であったが、2007年ドイツ鉄道に買収され、2009年よりDBシェンカー称した。イギリスの鉄道なのにドイツ鉄道下の会社が貨物輸送のシェアを大きく占めているのは皮にも感じられる。ちなみにDBシェンカー日本では西濃運輸との合弁企業「西濃シェンカー」を設立し、際輸送事業を展開している。
  7. *1991年2月ロンドン交通網が麻痺した時にイギリス国鉄担当者が言った"We are having particular problems with the type of snow"(々はタイプに関する特別な問題を持っている)という言葉が由来。2009年欧州英仏海峡トンネルを走行中のユーロスタートラブルが起こった時にもマスコミ各社によって用いられた。
  8. *8だいの機関車」項も参照のこと。
  9. *通常、第三軌条方式では、集電レールから取り入れた電気を走行用のレールに流すが、第四軌条方式はさらに電気を流すためのレールを備えたもの。
  10. *地下鉄」を意味する「メトロ」という言葉はメトロリタ鉄道となっている。メトロリタ鉄道は当初車輌を保有しておらず、GWRより蒸気機関車と客を借り受けて運行させていた。
  11. *地下鉄」項にもあるが、このとき導入された客が一切付いていなかった。ボギー&クッションりの椅子で乗り心地は良かったようである。なお、このしの客は「精神病院の独房」と呼ばれたそうな。
  12. *トレヴィシックは蒸気機関車が世間に認められないと分かると蒸気機関車に対する興味を失ってしまった。その後中南米を放浪して、詐欺に遭い一文しになってしまった。結局スティーブンソン子に費を工面してもらってイギリスに帰ってきたが失意の内に1833年にこの世を去った。
  13. *炭山から石炭を輸送するための鉄道であった。開業は1758年。現在も保存鉄道として運営されており、世界最古の現存する鉄道と言われている。
  14. *直訳すると「女王陛下鉄道団」。イギリスの人々にも古めかしく聞こえるらしい。
  15. *鉄道王」と呼ばれた人物はコーネリアスヴァンダービルト(Cornelius Vanderbilt)など、19世紀から20世紀にかけてのアメリカにおいて多く見られたが、これは現在で言う「石油王」の概念に近い。世界ではじめて「鉄道王」と呼ばれたのはジョージハドソンが初めてである。
  16. *1435mmであることに特に意味はない。
  17. *ブルネルは高速かつ優列車した。ロンドンから港町のブリストル(Bristol)までの鉄道を開通させようとして橋梁トンネルを設計し、さらにブリストルからアメリカニューヨークまでを結ぶ大西洋横断航路を就航させようとして当時世界最大の蒸気グレート・ウェスタン号を建造したとんでもねーお方(ちなみに「そんなにでかいニューヨークまで行くとかに行くのと同じくらい不可能だろHAHAHA」とか言われてた)。鉄道デザインコンペティションの「ブルネル賞」に名前を残している。
  18. *世界初の自走する消防車を作ったお方。レインヒルトライアルにも参加しており、軍人上がりのスウェーデン出身のエンジニアジョン・エリクソン(John Ericsson)と共に消防車改造した蒸気機関車ノベルティ号(Novelty)を出走させた。
  19. *アイルランド鉄道軌間1600mmと定められたのもこの時である。
  20. *ノルウェー道路主任技師のカールアブラハム・ピール(Carl Abraham Pihl)が採用した。ピールはロバートスティーブンソンの子にあたる。1067mm軌間南アフリカなどイギリス植民地で多く用いられ、日本でも流となっている。
  21. *1836年に開業した鉄道。保存鉄道として現在運営されている。
  22. *エンジニア系・スプーナーの出。スプーナーウェールズ狭軌軽便鉄道の敷設に大きな貢献を果たした。例えば、タリスリン鉄道の技師であったジェームズスウィントンスプーナー(James Swinton Spooner)はチャールズである。
  23. *その内の2号機「プリンスPrince)」は現在でもフェスティニオグ鉄道に在籍している。ちなみにプリンス汽車のえほん/きかんしゃトーマスに登場するデュークモデルである。
  24. *当時、フライング・スコッツマンを牽引した蒸気機関車グレート・ノーザン鉄道スターリング・シングルである。きかんしゃトーマスTVオリジナルキャラクターエミリーモデル
  25. *ナイジェル・グレズリー(Nigel Gresley)卿設計の流線蒸気機関車きかんしゃトーマスTVオリジナルキャラクタースペンサーモデルである。また、マラード自体も汽車のえほん35巻にて登場している。
  26. *もともとは貨物用機関車も色鮮やかに塗られていたが、四大鉄会社化の際に貨物用機関車、貨客両用機関車赤色のストライプで塗ることになった。
  27. *当時フライング・スコッツマンを牽引していたのはLNERクラスA4蒸気機関車である。
  28. *資材を最小限に用いて製造された戦時形車両。頼むから英国一醜い蒸気機関車とか言わないであげて下さい。きかんしゃトーマスTVオリジナルキャラクター・ネビルモデルでもある。
  29. *ハイス(Hythe)~ダンジェネス(Dungeness)の21.7kmを結ぶ世界最小の公共鉄道静岡県伊豆市修善寺にあるテーマパークの郷には、RH&DRと同じサイズ車輌を用いた遊覧鉄道ロムニー鉄道exit(外部リンク)」がある。実際にRH&DRで使われていた車輌も使われている。
  30. *のち1969年蒸気機関車時に「British Rail」に称した。マークの「ダブルアロー」はこの時に導入され、車輌はレール・ブルーRail Blue)と呼ばれる青色で塗られることになった。
  31. *少数の軽便鉄道、産業鉄道地下鉄路面電車などは有化されなかった。
  32. *旧LMSが所管していた北アイルランド鉄道は北アイルランド政府に売却され、1949年アルスター運輸機構(Ulster Transport Authority)の一部となった。
  33. *ブルーベル鉄道が保存のために最初に購入した蒸気機関車が55号機「ステップニー」である。汽車のえほん18巻「がんばりやの機関車」及びきかんしゃトーマスではステップニーソドー島へやって来る、という物語ブルーベル鉄道が取り上げられた。
  34. *物理学博士で、前職はインペリアル・ケミカル・インダストリーズ英国最大の化学会社)の技術部長。あらゆる意味で鉄道経営とは何の縁もゆかりもない人物だった。
  35. *イギリス国立鉄道博物館には0系新幹線電車が展示されている。現在国立鉄道博物館に展示されている車両で、イギリス以外で製造された車両0系のみである。
  36. *在来線」は日本の鉄道の用なのでこの言葉の用い方は不正確なのだが、わかりやすくするために「既存の路線」という意味で在来線を用いた。
  37. *フランスの高速列車TGV」の技術を元にして作られた。Class373項も参照のこと。
  38. *サッチャー政権は1980年代後半にバス事業会社・ナショナルバスカンパニーNational Bus CompanyNBC)の民営化・バス事業自由化を行ったが、これが大失敗に終わった。自由化により、最低限の安全基準を満たせば(事実上)でもバスが運行できるようにしたところ、かるようなバス路線に事業者が集中したり、逆にすぐに止されてしまう路線が現れたり、バス会社が新設されたりすぐに倒産したり、サービス準がガタ落ちしたり大混乱となった。鉄道が直ちに民営化されなかったのはこの二の舞を避けるためだと言われている。バス事業民営化にを尽くした時の運輸大臣・リッズデイル(Liddesdale)男爵ニコラス・リドリーNicholas Ridley)は性懲りイギリス国鉄の民営化を進めようとしたところサッチャーに「鉄道民営化はこの内閣ワーテルローになるでしょう。その言葉を二度と口にしないで下さい」と言われてしまった(クリスチャンウルマー著、坂本一訳「折れたレール」P89より)。
  39. *クラッパム・ジャンクションには「Britain's busiest railway stationブリテンで最も忙しい鉄道)」という看板がある。大きな幹線がX字の様に交差する分岐車両基地もあるために分岐器や渡り線がものすげーことになっている。
  40. *この決定には首相辞任直前のサッチャーの変心がある。ただし、サッチャーの後継者のメージャーは民営化は「したらいいんじゃないの?」くらいの関心しか持っておらず、前述のサッチャーの懸念事項は全く共有していなかったと言われている。赤字続きとはいえ、イギリス国鉄は上手く維持管理されている組織であり、政府内でBRを民営化する理由が考えられた。つまり、BRの民営化はさしたる的もなく民営化するために民営化されたと摘されている。
  41. *分割して叩き売られた状態に近い。
  42. *死者こそ前述の2つの事故よりも少なかったが、ハットフィールド事故がきっかけでレールトラック社は過剰に列車速度制限を行い、列車ダイヤは乱れに乱れ、ロンドン近郊で起こったハットフィールド事故は遠く離れたスコットランドの路線にまでをもたらした。
  43. *レールトラック社は破綻寸前にもかかわらず同年5月にはに配当を支払っていたことから、この政府の判断を批判するものは少数だった。
  44. *フランシスヘンリー日本人結婚し、その子の奥野太郎氏は日本郵船欧州航路の船長として活躍した。
  45. *GWR3700蒸気機関車3440号機。非公式ながら世界で最初に時速100マイル160km)を出した蒸気機関車として知られる。13巻「ダックとディーゼル機関車」にて登場した。
  46. *こちらは列車名ではなく、機関車名前である。LNERクラスA1/A3蒸気機関車4472号機のこと。こちらは公式に最高時速100マイル160km)を記録した、イギリスで最も有名な蒸気機関車の一つである。きかんしゃトーマス/汽車のえほんゴードンモデルであり、23巻「機関車のぼうけん」ではフライング・スコッツマンゴードンが同機として会談した。

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イギリスの鉄道

23 ななしのよっしん
2016/04/30(土) 18:23:19 ID: ozXFNoyaWr
凄い充実した記事だ。
新書一冊読んだくらいの満足感はある。
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24 ななしのよっしん
2017/05/03(水) 10:38:13 ID: Ps6wAdF6AE
上質な記事
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25 EA易者
2017/11/03(金) 01:57:05 ID: wPGmOYSyZx
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26 ななしのよっしん
2017/11/11(土) 20:53:22 ID: qYKkMs+wXK
Class800デビューしたがYoutubeではやっぱりクソだのゴミだのno
progressだのjap crapだの滅に言われてるな。安っぽいシートディーゼル走行時の騒音が不満らしい
んでHSTを称賛するが多いようだ
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27 ななしのよっしん
2017/11/11(土) 21:14:54 ID: qYKkMs+wXK
あとClass800の初日不良動画中国韓国人ユーザーがたかってるから日本人も反論せな
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28 ななしのよっしん
2018/04/08(日) 09:13:40 ID: ugbpXCMU+I
でもあれってイギリスで製造されてたはず
つまりいつもの
そしてお前が言うな特亜
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29 ななしのよっしん
2019/07/12(金) 23:50:16 ID: mY8V5sGlu7
【問題】
『くまのパディントン』でパディントン)はこのにいたからこの名前が付いた設定ですが、なぜキングクロスユーストではなくパディントンにいたのでしょうか?



【答え】
南米(本いわくペルー)より大西洋を渡ってきたから。
当時のロンドンに行く大西洋横断はプリマスで乗客や郵便を降ろして、そこから鉄道ロンドンに向かわせていた。
そしてこのルートで行くと終着パディントンになるので、はこのにいたのである。
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30 ななしのよっしん
2020/02/11(火) 04:30:06 ID: od2KSwYB5D
ビッグフォー時代の急客用機関車の性対決ワクワクする話よね
時速100マイル記録したLNERのクラスA1がより小GWRのクラス4073との性較試験で性、燃費ともに敗北し、それがクラスA3への良に繋がったとか
そんなGWRクラス4073もSRロードネルソン級に最強機関車の座を奪われてさらなる強機関車の製造に挑んだとか
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31 ななしのよっしん
2021/09/06(月) 14:41:09 ID: elCAL65UjL
>>27-28
ネトウヨきっしょ
同じ海外として恥ずかしい
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32 ななしのよっしん
2021/09/19(日) 02:21:36 ID: ar1RllWow8

>>sm39032612exit_nicovideo
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