ハクタイセイ(Haku Taisei)とは、1987年生まれの日本の競走馬である。芦毛の牡馬。
オグリキャップが巻き起こした第二次競馬ブーム真っ只中の1990年に第一次競馬ブームの立役者ハイセイコーの子として走り皐月賞親子制覇を成し遂げた「白いハイセイコー」。
主な勝ち鞍
1990年:皐月賞(GI)、きさらぎ賞(GIII)
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
概要
父ハイセイコー、母ダンサーライト、母父ダンサーズイメージという血統。
父ハイセイコーは言わずと知れた日本競馬史に残る社会現象を巻き起こしたアイドルホース。
母ダンサーライトは85年生まれで未出走で繁殖入りしているが本馬の前には特筆すべき産駒はいないようだ。
母父ダンサーズイメージは現役時はケンタッキーダービー1位入線失格など順調ではなかったが、種牡馬としては日本にやってくる前にフランスやイギリスでG1馬を輩出、日本でも母父としてGI勝利馬を出すなど優秀な成績を残している。
1987年4月17日、三石町の土田農場で誕生。3歳になったハクタイセイはバンブーアトラスやネーハイシーザーなどを管理した栗東の布施正厩舎に入厩した。
現役時代
ハクタイセイは1989年の7月に小倉競馬場で後にゴールドシップやジャスタウェイの調教師として有名になる須貝尚介騎手を背にデビューしたが、1番人気ハギノハイタッチの逃げを捉えられず2着。次戦は1番人気に推されたが4着、3戦目は後のオークス馬エイシンサニーの6着となかなか勝ち上がれなかったが、5戦目となる10月のダート1400mの未勝利戦でようやく勝ち上がった。
これで何かがかみ合ったのかあるいはまだ成長しきっていなかっただけなのか、南井克巳騎手が乗った条件戦でも逃げの戦法から上り最速で3馬身差を付け圧勝。須貝騎手に戻ったオープン戦のシクラメンステークス(芝2000m)も2番手から抜け出す理想的な競馬で勝利して3歳時を締めくくった。
4歳になった1990年も勢いは止まらないまま初戦のオープン戦若駒ステークスを勝利しクラシック路線に本格的に参戦。5連勝と重賞初勝利をかけてGIIIきさらぎ賞に出走した。ここでは阪神3歳ステークスを勝利したコガネタイフウ、後のGI馬ダイタクヘリオスやフェブラリーハンデキャップを勝利するナリタハヤブサら強豪が揃ったが、不良馬場となった当日は父ハイセイコーが道悪2000では無敵を誇っていたこともあり単勝2.7倍の一番人気に推され、泥だらけになりながら「この根性だ!ハクタイセイ!」という杉本清アナの実況を受けながら鞍上須貝尚介共に人馬初めての重賞勝利を成し遂げた。この勝利によりハクタイセイは自身の芦毛と合わせて「白いハイセイコー」と呼ばれるようになり、クラシックの最有力候補の1頭として有名になった。
きさらぎ賞後、ハクタイセイが輸送に弱いことに気づいていた陣営は考えた末、当時とした異例ではあったものの地元関西でじっくり調整したうえで初GIにして初関東でもある皐月賞に直行することを決断する。鞍上はこれまでの主戦であった須貝騎手から過去1度乗ったことがあるトップジョッキー南井騎手に乗り替わりとなった。
本番の皐月賞では朝日杯3歳Sと共同通信杯を勝ったアイネスフウジン、そして弥生賞でアイネスフウジンを破ったメジロライアンに続く3番人気に推されたハクタイセイは、アイネスフウジンがスタート直後にホワイトストーンとぶつかっている内に中団につけ、追い込み戦法をとるメジロライアンを巧みに外から蓋をして内に押し込めながら、最終直線で先頭に立っていたアイネスフウジンを差し切りクビ差で勝利。見事6連勝で初GI制覇、そして父ハイセイコーとの親子制覇を成し遂げた。
調教師の布施師は東京優駿を82年のバンブーアトラス、菊花賞を前年89年のバンブービギン(ちなみにこの2頭も親子である)に続いてハクタイセイで皐月賞を勝利し史上7人目、三冠馬を管理したことのない調教師としては史上3人目の3冠達成調教師となった。ちなみに小倉でデビューした馬のクラシック制覇は初。
クラシック第2戦の東京優駿では南井騎手が自厩舎のロングアーチの先約があったため陣営は再びこれまでの主戦騎手であった須貝騎手に依頼を出したのだが、須貝騎手は当時フリーであったのにもかかわらず父親である須貝彦三調教師から「皐月賞馬に乗ってダービーに挑むのは息子には荷が重い」と辞退の連絡が来て鞍上が開いてしまった。結局陣営は武豊騎手に騎乗を依頼し、スーパークリーク以来の牡馬クラシック勝利、そして悲願のダービー制覇を目指す武騎手も皐月賞馬の騎乗依頼とあってこれを快諾し再び直行でハクタイセイ陣営はダービーへ向かった。
メジロライアンに次ぐ2番人気となったダービーではアクシデントもなく先頭に立って逃げたアイネスフウジンをマーク、このまま楽に逃がしてしまえば逃げ切られるとわかっているハクタイセイと武騎手は競り潰すべく第3コーナーから一気に仕掛け真っ向勝負を挑み、アイネスフウジンもペースを上げて直線へ入ったがハクタイセイは直線に入った後足が止まってしまい、後ろから追い込んで来たメジロライアン、ホワイトストーン、ツルマルミマタオーにも差され5着に終わった。父ハイセイコーも中距離が1番強いと言われていただけに距離の壁もあったのかもしれない。それでもレコード決着の中掲示板には残り皐月賞馬としての実力は見せた。
ダービー後ハクタイセイは屈腱炎を発症し休養に入り、復帰は1年後の安田記念となったが、レース直前で繫靭帯炎を発症。無念の出走取り消しとなり、そのまま引退となった。
引退後
引退後は日本軽種馬協会の種牡馬となり北海道の静内で種牡馬入り。その後九州、静内、胆振、十勝と転々としながら種牡馬を続けたが、重賞を勝利するような産駒は現れず、2006年を最後に種牡馬を引退。その後は功労馬として静内種馬場で余生を送った。
その後2013年10月にメラノーマ(悪性腫瘍)が原因となる腸閉塞で死亡。26歳だった。
ハクタイセイのデビュー当初、父のハイセイコーは種牡馬としての人気に陰りが見え始めた時期で、中央・地方問わずよく走る産駒を出していた事から繫殖牝馬は集まっていたものの、牝馬の質は種牡馬入り当初に比べれば大きく落ちていた。種付け料もダービー馬カツラノハイセイコが出た頃よりも大きく下がって90万円まで下がり、100万円を割り込んでいた。しかし前年89年にサンドピアリスがエリザベス女王杯を勝利し、翌年ハクタイセイが皐月賞を親子制覇したことにより種牡馬人気が復活。ハイセイコーの種牡馬としての寿命は大きく伸びたのであった。ハクタイセイの競走人生は早い時期に終わってしまったが、その短い時間で成し遂げた功績は間違いなく偉大なものであったのである。
エピソード
- 主戦騎手を務めていた須貝尚介騎手は皐月賞直前に乗り替わりになってしまった経験を踏まえて、調教師として大成した今も勝つために乗り替わりを指示する際出来る限りの気を配っているという。
- 同期の牝馬には同じくハイセイコーを父に持つ牝馬ケリーバックがいて、桜花賞2着の実績を残した後ハクタイセイと同じ芦毛であったこともあり、こちらでも「白いハイセイコー」と呼ばれた。
血統表
ハイセイコー 1970 鹿毛 |
*チャイナロック 1953 栃栗毛 |
Rockefella | Hyperion |
Rockfel | |||
May Wong | Rustom Pasha | ||
Wezzan | |||
ハイユウ 1961 黒鹿毛 |
*カリム | Nearco | |
Skylarking | |||
*ダルモーガン | Beau Son | ||
Reticent | |||
ダンサーライト 1982 芦毛 FNo.4-d |
*ダンサーズイメージ 1965 芦毛 |
Native Dancer | Polynesian |
Geisha | |||
Noors Image | Noor | ||
Little Sphinx | |||
ネバアーライト 1966 栗毛 |
*ネヴァービート | Never Say Die | |
Bride Elect | |||
ミスフォール | クモハタ | ||
スターライト | |||
競走馬の4代血統表 |
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関連項目
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