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メジロモンスニー
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メジロモンスニーとは、1980年生まれの日本競走馬である。栗毛

数々の活躍を送り出したメジロ牧場の悲願に最も近づき、そして19年振りの三冠馬に惜しくも阻まれた、「ミスターシービーライバル」と呼ばれた競走馬

な勝ち
1983年:シンザン記念
1985年:高松宮杯(GII)

※当記事では活躍した当時に合わせて旧齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。

概要

マンド、ドウヤアマミ、シンオンワードという血統。

マンドは現役時代重賞を4勝した後日本種牡馬入りしたイギリス生まれの外種牡馬。メジロモンスニーが生まれた1980年には産駒オペックホース東京優駿を制したこともあり牧場の期待は登りになっていた。同期には同じリマン産駒南関東三冠サンオーイがいる。

ドウヤアマミはメジロ牧場開場初期に存在した他の馬主に売却された生産。21戦2勝の成績を残した後メジロ牧場に戻り繁殖入りした。

シンオンワードは50年代から活躍するオンワード軍団の1頭。重賞勝ちはかったものの7歳まで頑健に62戦走り16勝を挙げた。

1980年4月14日メジロ牧場で誕生。1980年生まれのメジロ競走馬名ははヨーロッパ横断特急(TEE)列車名から取られており、本フランスリヨンからイタリアミラノを結ぶ「モン・スニ(Mont Cenis)exit」と冠名メジロを合わせて「メジロモンスニー」と名付けられた[1]

3歳になったメジロモンスニーはエリモジョージメジロパーマーナリタブライアンなどを管理した東の大久保正陽厩舎に入厩した。

現役時代

1982年6月札幌競馬場新馬戦松田騎手上にデビューし4着。中1週で挑んだ2戦も3着に終わり、3戦となる翌7月未勝利戦で初勝利を挙げた。次走4戦は強気に3歳重賞北海道3歳ステークス河内洋騎手に乗り替わった上で挑戦したが、新馬戦を勝ったのみで出走してきた素質マックスファイアーから7身ほど離された5着に終わった。

その後の休養を終えて地元関西に帰ってきたメジロモンスニーは自己条件の萩特別(400万下)を後のGIカツラギエースを半身差で下して勝利し、京都3歳ステークスへ出走。ここではルーキーオーに敗れ2着だったが、1か後の3歳ステークス(OP)では逆にルーキーオーを破りリベンジに成功した。その勢いのまま年末の阪神3歳ステークスへ挑んだが、競り合うダイゼンキングニホンピロウイナーからはもちろん前走で勝ったルーキーオーやシャダイソフィアからも離された最下位8着に敗れてしまった。

4歳時は阪神3歳Sから1か後のシンザン記念から始動。クラシック戦線を意識して既にニホンピロウイナー騎手であった河内騎手から清水英次騎手に乗り替わりとなった。前走で最下位ではあったものの勝ちから何身も離されたわけではなかったこと、メンバーが手薄であると判断されたこともあって重賞では初めてとなる1番人気に推され、人気に応えて5身差で圧勝。クラシックの有として名乗りを上げた。しかし2月きさらぎ賞ではニホンピロウイナールーキーオーの他初顔合わせとなったリードホーユーにも敗れ5着。3月スプリングステークスではニホンピロウイナールーキーオー、ダイゼンキングには先着したものの勝ちタケノヒエンから4身以上離された4着と前戦での勝ち切れない戦いが続いていた。営はその中でメジロモンスニーが一番を発揮できる走り方を探し、最終的に序盤では中団から後方に構え、終盤に追い込む作戦クラシック三冠に挑むことになった。

そしてメジロモンスニーは皐月賞に出走するために訪れた中山競馬場で、ある1頭のと出会う。そのの名はミスターシービー、かつて「天馬」とまで言われたトウショウボーイ産駒にして自身もに似た非常に美しいだった。ここまで5戦4勝2着1回の成績で全てのレースで1番人気皐月賞でももちろん単定の1番人気に推されていた。対してメジロモンスニーは有の1頭ではあったものの21頭立ての大外821番となってしまい[2]、5番人気に留まっていた。大雨でぐちゃぐちゃになった稀に見る不良馬場での開催となった皐月賞では、第1コーナーミスターシービーが不利を受け最後方となる中メジロモンスニーは大外から後方集団につけて追走に入った。ミスターシービーが向こう正面からポジションを挙げて捲りにかかる中でも作戦通り後方で構えたまま最終直線でカツラギエースを捉えようとするミスターシービーの外から追い込んでいったが、半身差がどうしても詰め切れずにそのまま抑え込まれて2着に敗れた。

クラシック二冠日本ダービーでは皐月賞とは逆に21頭立ての11番の最内になった(極端すぎんか?)。メジロモンスニーの血統は距離が伸びた方が好走する可性が高いこと、マン産駒にはダービーオペックホースがいることもあり1番人気ミスターシービーの対抗として2番人気に支持された。レース本番では今度は出遅れで最後方になったミスターシービーをよそに今回もきっちりスタートを決めて後方につけた。ミスターシービー皐月賞同様向こう正面から捲りに入っていくが、最終コーナーを回った所でメジロモンスニーの前を走っていたタケノヒエンが外側に斜行してそれをよけたミスターシービーが更に外を走るキクノフラッシュと衝突するアクシデントが発生。メジロモンスニーと清水騎手はこのチャンスを見逃さず、タケノヒエンが走っていた内側へ鋭く切り込み、東京競馬場の長い直線を猛然と追い込み始めた。しかしミスターシービーもすぐに立て直すと凄まじい末脚を繰り出して一気に先頭を奪ってしまった。メジロモンスニーは内でる先行勢のビンゴカンタを半身差で交わして2着となったものの結局最後までミスターシービーを捉えることは出来なかった。レースミスターシービーキクノフラッシュとの衝突時にニシスキーの進路を妨していたことが判明し、審議の結果次第では繰り上げでのダービー優勝の可性もあるにはあったが、結局着順は変わらず終わり、1961年に「髪の毛1本の差で負けた」と言われたメジロ最初の活躍メジロオーのリベンジを果たすことは出来なかった。レース清水騎手は外に追いやられたうえ衝突までしたミスターシービーを最後まで捉えられなかったことを念頭に「シービーの強さには脱帽ですよ」というコメントを出し、その強さを称えている。

クラシック連続2着の結果を受けてメジロモンスニーは「ミスターシービーライバル」と呼ばれるようになった。三冠最後の菊花賞ではミスターシービー菊花賞で敗れたトウショウボーイ息子であることもあり、近菊花賞勝利したホリスキーがいるメジロモンスニーの方が有利であるとみられ、の逆転に期待を寄せられていたが、ダービー以来の出走となった菊花賞トライアル神戸新聞杯スズカコバンカツラギエースの3着に敗れた後に骨折が判明し菊花賞の挑戦を断念することを余儀なくされた。

丁度1年の休養で怪癒したメジロモンスニーはグレード制が導入され競走体系の大幅な革が行われた中央競馬へ戻ってきた。復帰戦に選ばれたのはGIIに格付けされた京都大賞典。前年に同じ舞台エリザベス女王杯勝利したロンググレイス、そして4歳時最期のレースで敗れたスズカコバン、前年阪神大賞典を芝3000mの世界レコード勝利したシンブラウンに次ぐ4番人気に推された。しかしさすがに長期休養明けとあって自分のレースが出来ず3番人気シンブラウンには先着したものの勝ったスズカコバンから2.6離された6着に敗れた。年内最終戦として選んだ当時12月に行われていたGII阪神大賞典では前走で先着したシンブラウンスズカコバンとのクビ差の大接戦を制して史上初の阪神大賞典連覇を達成する中8着に敗れ、またしばらくの休養入りとなった。

6歳となった1985年4月末の天皇賞(春)して阪神2500mのオープン競走大阪城ステークスから復帰。再びの休養明けで8頭立てで5番人気と軽視されていたが、マルゼンスキー産駒のマルゼスターにクビ差先着しシンザン記念以来2年ぶりの勝利を挙げた。本番の天皇賞(春)ではライバルミスターシービーダービー以来の顔合わせとなり、前走での勝利からシンボリルドルフミスターシービーゴールドウェイに次ぐ4番人気に推されたが、ライバルミスターシービーが衰えを押して菊花賞と同じくまくりを掛けてシンボリルドルフに勝負を挑んだ中メジロモンスニーは特に見せ場を作ることもできないまま9着に敗れた。結局これが引退戦となったミスターシービーは敗れはしたものの5着に留まったため結局メジロモンスニーはミスターシービーに一度も先着することが出来なかった。

その後メジロモンスニーは天皇賞に間に合わせるために急仕上げで理をしたこともあり間隔をあけて調整をし直し、体制を整えて中京競馬場の大一番GII高松宮杯へ向かった。メジロモンスニーは天皇賞での大敗の割には上位人気の一である4番人気に支持された。1番人気は前年ダービーシンボリルドルフの2着に入り前走エプソムカップを制していたスズマッハ、2番人気は遅れて本格化してきた同期快速ウインザーノット、3番人気宝塚記念を勝ってGIとなったスズカコバンであった。が降りしきる中不良馬場で行われたレースではスタート直後はいつも通り後方に控えたが、快足を飛ばし先頭を走るウインザーノットロングミラクルが競り掛けていき1番人気スズマッハが後方に下がるなど想像通りとは違う展開になった事でメジロモンスニーは中盤でくも先団まで押し上げるという積極策に出る。最終直線に4番手で入ったメジロモンスニーは先に抜け出していたこの年の最優秀5歳以上グロバルダイナハナ差差し切り2年半ぶりの重賞勝利を挙げ復活を果たした。

しかし復活を遂げたメジロモンスニーはこの勝利のためにの全てを出し切ってしまったのか、故障を繰り返し調整もままならなくなり、年内は全休。7歳時は天皇賞(春)で復帰したものの16頭立て15着と惨敗。連覇をした高松宮杯でも18頭立て14着に敗れた後は出走せず、そのまま引退となった。

引退後

引退後は種牡馬入りすることが出来たものの代表産駒重賞1992年高崎オークスを勝ったティラミスのみ[3]中央競馬では重賞を送り出すことは出来なかった。としては名古屋競馬重賞を3勝したブラウンライアンを輩出している。その後1996年に用途変更となり種牡馬引退重賞2勝であったもののメジロ牧場出身としてはしくそのまま行方不明になってしまった。

当時のメジロ軍団秋天皇賞を勝利することは出来ていたもののその他の所謂八大競走勝利することは出来ておらず、初勝利はメジロモンスニーが引退した86年に入れ替わるように現れたメジロラモーヌメジロデュレンによって成し遂げられた。その後メジロ90年代全盛期をむかえ多くのGI競走を勝利することになったが、クラシックに関しては最後まで勝つことは出来ずに終わった。メジロモンスニーの二冠両競走での2着はそれに最も近づいた記録であり、特に皐月賞の2着はメジロモンスニーが一のものであった。だがもちろんそんなことが言えるのは今現在から過去を振り返っているからこそできることであり、当時のメジロモンスニーGI勝利に届かず種牡馬としてもパッとしなかったよくいる重賞の一頭でしかなかった。しかしそれでも大きな偉業に手をかけた名の最期がこんなものでいいのかと、現代から過去を振り返る者としてはつい嘆いてしまうのである。

血統表

*リマン
Remand
1965 栗毛
Alcide
1955 鹿毛
Alycidon Donatello
Aurora
Chenille King Salmon
Sweet Aloe
Admonish
1958 芦毛
Palestine Fair Trial
Una
Warning Chanteur
Vertencia
ドウヤアマ
1974 鹿毛
FNo.5-e
シンオンワード
1958 鹿毛
トサミドリ *プリメロ
*フリツパンシー
*ホワイトソツクス Fair Trial
Path of Peace
*ヴアレンシア
1956 栗毛
Pharis Pharos
Carissima
Djama jebel
Semiramide
競走馬の4代血統表

クロスFair Trial 4×4(12.50%)、Pharos 4×5(9.38)

主な産駒

母の父としての主な産駒

関連動画

ライバルとのクラシック対決

関連コミュニティ

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *ただメジロモンスニーが生まれた1980年の時点でモン・スニはTEE(一等列車)から一般の特急列車に格下げされていた
  2. *最終的に819番のハヤテミグが出走取り消しとなり20頭立てとなった
  3. *ちなみにこの時の2着アメリカンオーイは自身と同じくリマンドをに持つ同期サンオーイ産駒であった

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メジロモンスニー

1 ななしのよっしん
2023/08/26(土) 09:33:20 ID: Bh+dI9aDW4
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