三国志後伝単語

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三国志後伝とは、三国志演義の続きを書いた中国古典小説である。

作者は「陽野史(ゆうようやし)」。『三国志演義』の作者である羅中とは別人。書かれたのは中国の明代であり、三国志演義と同時代となる。

要するに三国志演義の続編を別人が著作権とか、パクリ概念がない時代に、ある程度の史実と民間説話を程度は踏まえながら、好き勝手に書いた作品である。

概要

おおまかな内容 

三国志演義において、(正式には)がに滅亡させられた後、の時代になってから三国志演義主人公である劉備関羽張飛諸葛亮趙雲たちの子孫が騎民族である匈奴に逃れ、後に晋王朝と戦い、大暴れして漢王朝を再する話である。 

いわゆる三国志演義の三世ものスピンオフ小説である。なお、水滸伝も受けている。 

主人公は、劉備の孫(という小説上の設定)である劉淵である。劉淵の部下として、関係の人物や武将が多数、登場する。 

原書は世界中で二冊しか確認されていないが、江戸時代に、「通俗続三国志」、「通俗続後三国志」という名で日本語翻訳され、現代でもネットで読めるというある意味、異様に恵まれた作品である。スピンオフすら読みたいとは、日本人は本当に昔から三国志が好きだったことは間違いない。 

劉淵劉備の孫であることや、その部下がの人物の子孫であること、に仕えるの人物の子孫と争うところは小説上の設定であるが、ある程度は史実を反映して、大きな流れは史実通りに進むところは三国志演義と同じである。そのため、小説の中でもはやっぱり、また滅んでしまう。 

元々は元代に書かれた三国志話の最後にある「劉備ひ孫(ここが違う)である劉淵匈奴に逃れて、漢王朝を復し、晋王朝を打倒する」という話を広げてつくられ小説であり、実際に三国志演義より長い。 

出来はもちろん三国志演義にはかなり劣り、中国ではほとんど売れなかったようであるが、江戸時代日本ではそこそこは売れたようである。やっぱり、日本人は昔から三国志が好きだったらしい。 

細かい内容はwikipediaexit参照。以下はそこに書かれていない部分について説明する。

小説舞台となった史実については、晋王朝八王の乱五胡十六国を参照。

三国志後伝に登場する王朝

三国志後伝では三国志の後に下を統一したと、に対抗するいくつかの王が登場する。ここではそれらの王を説明する。 

晋(西晋・東晋)

時代を統一した王を滅ぼした譲を受け、司馬懿の孫の司馬炎が建した。その後、を滅ぼして下を統一する。都は陽。 

司馬炎が死んだ後は史実通り、やたらと内紛ばかりしている。(史実については八王の乱参照。史書を読むと「司馬」ばかりな上に、ほぼ間違いなく途中で飽きることは間違いないが、こちらの項はとてもよくまとまっている) 

後に、この下に出てくる北ボコボコにされて、五代皇帝司馬が、中国の東南部分のみを支配した形で南方の建康(建業)で即位する。これ以降は東と呼ばれるため、司馬の即位以前を西と呼ぶこともある。 

北漢(国号は「漢」) 

劉備の孫の璩(りゅうきょ)がを逃れ、名を劉淵めて山西(三国志の時代における并州)に建した。)の後を継ぎ、祖国として復讐を企てる。はあくまででは?とツッコんではいけない)山西の地にある陽を都とした。 

戦争に関しては強いが、漢王朝と違い、大きな内紛が起きてしまう。 

劉趙(国号は「趙」、前趙とも呼ばれる)

劉淵の孫のりゅうさん ※史実では粲(りゅうさん))の代で外戚の靳准(きんじゅん)に滅ぼされ、一族の曜(こちらは、劉備ひ孫)が靳准を討ち取って即位する。その際に号をからめた。関中の地で建し、長安を都とした。 

時点からボロボロであった。 

石趙(国号は「趙」、後趙とも呼ばれる)

の滅亡との建にともない、それまで北に従っていた武将の石勒が自立し、河北の地で建した。都は襄。 

軍師の賓(ちょうひん、張飛の孫)が天才軍師であり、石勒も知勇兼備の名将でありながら名君であるため、史実と違ってほとんど負けない。 

成(「成漢」とも呼ばれる)

飢饉に逃れた流民の特が自立し、その子の雄が建した。自立はしたものの、に対して積極的な侵攻は行わなかった。の地で建し、成都都とした。 

ここだけ三国志と絡まないため、すごく地味三国志以上にかなり空気な存在である。

三国志後伝主要人物一覧 

三国志後伝は、三国志演義以上に登場人物が多い。その中で特に要となる人物を紹介する。なお、紹介はあくまで小説上のことで史実とは違うこともあることについては注意すること。時代説明も含める意味で、皇帝についても詳しく説明する。 

【晋の皇帝】 

初代皇帝・武帝(司馬炎) 

司馬懿の孫。司馬昭の子にあたる。後世では、「武帝」と呼ばれる。 

伯父司馬師)、の事業を受け継いで、曹操曹丕が建したから譲を受けて、晋王朝を建した。 

族である司馬一族に大きな権限を与え、軍隊を縮小させ、戦乱の種をまきちらしまくる。司馬炎の代では平和が続いたため、政治に意欲を失い、後宮に四万人の女性を集めて、盛になるなどの遊びにもふけった。ただ、諫言で臣下をらないところだけは小説内で褒められてもいる。死後すぐに晋王朝は内憂外患に悩まされた。 

二代皇帝・恵帝(司馬衷) 

武帝司馬炎)の嫡子。後世では、「恵帝」と呼ばれる。司馬炎の死後、晋王朝皇帝に即位する。 

太子時代から、暗愚で優柔不断なことで知られており、三国志演義劉禅よりも100倍ぐらいダメな人。そのため、政治の実権はである駿に握られてしまう。これでも史実よりは人格も頭もかなりマシに描かれている。 

駿の殺された後は、「八王の乱」といわれる皇后である賈南風族である司馬一族による権をめぐる争いが起きる。司馬衷は八王の乱の最中で、最後に残った八王である東海王に殺される。もっとも、死んでもたいしてはなかった。 

三代皇帝・懐帝(司馬熾(しばし)) 

武帝司馬炎)の子。恵帝司馬衷)のにあたる。後世では、「の懐」と呼ばれる。恵帝の後を継いで皇帝に即位する。 

八王の乱の後、劉淵率いる北が攻められていることに構わずに、東海王と政治の実権をめぐって一族同士争う。色々と事情があるが、後世からは本当にバカに思えることをする。本当にこの一族はどうしようもない。 

東海王はやがて死ぬが、陽に攻めてきた聡(劉淵の子)が率いる北の軍勢によって、陽は陥落し、捕えられる。後に、北皇帝となった聡によって殺された。ただし、東海王が史実以上に悪役となっているため、懐自身は小説ではましな皇帝とされており、一人の人間としては人格と頭はよかったとされる。 

四代皇帝・愍帝(司馬鄴(しばぎょう)) 

武帝司馬炎)の孫にあたる。後世では、「の愍(びんてい)」と呼ばれる。懐司馬熾)が北に捕らえられたため、少年といっていい幼さでありながら、長安において即位した。この時には、すでに瀕死であり、色々と背負ってしまった可哀そうな人である。 

当然のように攻めてきた北曜の率いる軍相手に防戦を繰り広げ、二度の撃退には成功する。しかし、三度の侵攻において敗北し、長安は陥落して捕らえられてしまった。後に、これまた北皇帝である聡によって殺される。この小説主人公はあくまで北であるが、時々忘れそうになる。 

ここまでの晋王朝を「西(せいしん)王」と呼ぶこともある。 

五代皇帝・元帝(司馬睿(しばえい)) 

司馬懿ひ孫にあたる。つまりは司馬昭司馬炎の血は引いていないが、三国志後伝では実は牛金三国志演義牛金と同姓同名の別人)の子とされる。後世では、「の元(げんてい)」と呼ばれる。 

司馬鄴)が北に捕らえられたため、建康(建業から名)において即位した。これ以降の晋王朝は、江南地方のみを支配することになり、「東(とうしん)王」と呼ばれる。実際は、というよりの後継者っぽい感じの王となってしまう。 

こちらの方が三国志演義劉備に似た人物像である。 

【晋の人物】

・周処(しゅうしょ)・・・周魴の子。滅亡後にに仕えた勇猛な将。虎や(みずち)を一人で倒したことがある。劉淵の軍のエースである斉万年と互に戦えるにとって重な人材であったが、剛毅な性格であり、晋王朝司馬一族も構わずに不法をとりしまっていたため、色々と恨まれていた。そのため、北戦争中に援軍を出してもらえずに戦死する。

駿(ようしゅん)・・・武帝司馬炎)の皇后である芷(ようし)の父親にあたる。は低いがのおかげで、司馬炎亡き後の晋王朝の実権を握る。史実では殺されるが、三国志後伝はストーリーの都合で少しだけ長生きできた。しかし、やはり、史実と同様、賈南風に殺された。

張華(ちょうか)・・・晋王朝有能な大臣。無能強欲人間ばかりのにあって、ほぼ一まともな人。賈南風に仕え、なんとかを小康状態に持っていった。いい人は死ぬ法則により、八王の乱に巻き込まれ、(下で紹介される)司馬倫と孫秀に殺される。

賈南風(かなんふう)・・・賈充恵帝司馬衷)の皇后駿を殺した後、恵帝を操り、晋王朝の実権を握る。性格が悪いのに、顔も悪いという救いようのない人物。ただし、夫同様、史実よりはいくぶんマシに描かれている。張華同様、司馬倫と孫秀に殺される。

観(もうかん)・・・知勇にすぐれた将。周処の戦死後に劉淵の軍と戦う。晋王朝の数少ない名将と呼ばれる人物。斉万年を誘いこんで落とし穴におとして、戦死させるが、その後は全くいいところがなく、劉淵軍にボコられる。賈南風の部下となり、駿を討伐して出世したが、司馬倫と孫秀に殺される。

司馬倫(しばりん)・・・司馬懿の子。王とも呼ばれる。司馬師司馬昭にあたる。司馬一族の長老の一人にあたる人物であるが、参謀の孫秀の言いなりになっている。劉淵と戦い、見事にボコられた経験がある。政治の実権を握る賈南風を打倒し、張華観とともに殺して、皇帝になろうとするが、八王の乱において敗北し、殺される。

・孫秀(そんしゅう)・・・三国志の孫の孫。司馬倫の参謀。から亡命し、に仕えた過去があり、が滅ぼされ後、への復讐を誓っていた。軍略にすぐれるが、性格が悪く、張華たちにられそうになる。後に、見事、の実権を握るが、復讐を忘れて己の欲に走り、司馬倫とともに殺される。史実の孫秀は孫の孫とは同姓同名の別人であり、合体キャラにあたる。

司馬穎(しばえい)・・・司馬懿ひ孫司馬炎の子。を攻めてきた北軍を迎え撃つため、下各地のの兵を集め、110万以上の晋王朝の大軍を率いた。史実よりも、・人格ともにかなり優遇されている。素直な性格で、諫言も讒言も聞きいれやすく、権欲と野心をむきだしにして八王の乱に加わり、自業自得死亡

・陸機・・・陸遜の孫。陸抗の子。司馬穎の参謀となり、北討伐軍の軍師となる。これにより、司馬懿ひ孫陸遜の孫が組み、劉備諸葛亮の子孫と戦うというロマンを実現させる。司馬懿の使った「混元一気の」をの大軍に布させるという三国志演義ファンサービスを行い、北軍を迎え撃つが、北の参謀である賓の方が上手であり、軍の犠牲の方がはるかに大きかった。八王の乱に加わり、讒言を受けて司馬穎に殺される。

(きこう)・・・晋王朝を代表する勇猛な将。王浚(おうしゅん)という州を統治した人物に仕えている。北霊のライバル的な存在。万を越える軍において最強の武将であり、北軍からも相当に警された。最期まで霊と戦ったが、霊を討ち取ることにこだわった王浚によって共々、射殺された。

方(ちょうほう)・・・晋王朝を代表する勇猛な将。司馬一族である河間王に仕える。その武勇によって、万を越える軍の先鋒にとともに選ばれる。北の王弥のライバル的存在。八王の乱に加わり、その武勇を見せつけるが、戦争を不利と見た河間王によって、講和のために殺される。 

他に三国志演義の人物の子孫として、

程朽(ていきゅう)・・・程昱の孫
(てんしょう)・・・典韋の孫
舒(じょきゅうじょ)・・・徐晃の孫
(かくじゅう)・・・郭淮の孫
駑(ちょうど)・・・張郃の孫
(ほうよう)、鷂(ほうよう)・・・龐徳の孫
許史(きょし)、許坑(きょこう)、許(きょじゅつ)・・・許褚の孫
霄(りょうしょう)・・・凌統の孫
駿(かこうしゅん)、侯騄(かこうろく)・・・夏侯惇の孫
明(うめい)・・・于禁の孫
(ちょうぎゅう)・・・張遼の孫
楽房(がくぼう)・・・楽進の孫
(かくけい)・・・郭嘉の孫
(りょたい)・・・呂虔の孫
(りけん)・・・李典の孫 

などが登場する。の人物の子孫にあたる人物は、それなりに優秀であるが、やられ役となることが多い。 

【北漢の人物】

初代皇帝・劉淵(りゅうえん)

劉備の孫。劉理の子。(日本語翻訳版では劉禅の子)。元の名前は、璩(りゅうきょ)。北の地に逃れて、北漢王朝の初代皇帝となる。にあっては「知恵袋」といわれる存在であったが、部下の斉万年とともにの地へ脱出。との戦いを経て、匈奴の王となり、漢王朝をめざして、晋王朝と戦う。自身は都にいて、余り前線に出ることはなかった。当初は聡明であったが、次第に短気な性格となる。陽を落とし、の懐を捕らえた後は、遊びにふけって死亡する。三国志演義劉備の子孫であるのに、劉備とはキャラが違う。

二代皇帝・劉聡(りゅうそう)

劉淵の子。北漢王朝の二代皇帝となる。との講和の後、陽におもむき、司馬穎交を結んだが、八王の乱により、陽を脱出し、劉淵への侵攻を勧める。北軍を率いる大元帥となり、軍を各地で破った。劉淵の死後に皇帝となるが、次第に史実以上の暴君と化していく。

諸葛(しょかつせんう)・・・諸葛亮の孫。諸葛瞻の子。劉淵の軍師となる。しばらくにとどまり、占い師にふんして、後から魏延の子孫、馬謖の子孫とともに北の地をめざす。祖とは違い、さほど戦術と政治にはすぐれず、占い戦略外交に優れていた。との決戦の時は他の異民族外交でおさえる。途中からは出番がかなり少なくなる。

賓(ちょうひん)・・・張飛の孫。張苞の子。北漢王朝を代表する軍師。と違い、天才的な智謀を持ち、姜維を通して、諸葛亮の軍略を授けられる。後に劉淵の軍師となり、戦術や戦略法、謀略にすぐれ、重要な戦いにおける軍師として活躍し、軍を勝利に導く。勝利のために、かなり現実的に考えるタイプ。北の滅亡後に、石勒に仕えて、石に貢献する。実・敬がいる。この二人は張飛の血を忠実に引いて、勇猛な武将である。

・陳元達(ちんげんたつ)・・・北漢王朝の宰相。河西地方に住んでおり、逃れていた賓を迎え入れてその才を認められ、劉淵に丁重にまぬかれ、北の内政や戦略つかさどる宰相となる。優秀な武人を推薦することもあった。なぜか、この人には、陳式や陳寿陳到らの子孫という設定がない。

・曹嶷(そうぎょく)・・・曹爽の子孫。盗賊出身の武将。当初は軍の武将の一人に過ぎなかったが、積極的に前線に加わり、やがて独立軍を任されて、山東方面を制して、劉淵の死後は独自の勢を築くようになる。石勒とも対立し、互いに牽制する関係となる。

・王弥(おうび)・・・王平の子。北漢王朝を代表する勇猛な将。快に見えるが、意外と気難しい性格の人物。軍では先鋒を任されて、多くの将を討ち取った。一騎打ちでは知略を見せることもあるが、軽率に軍を進めて計略にかかることが多くとは大きく印が異なる曜とも石勒とも対立する。

・斉万年(せいばんねん)・・・劉淵に仕えた勇猛な将。劉淵に初めから従い、ともに匈奴におもむく。武勇が並外れており、素手で巨大な虎を撃ち殺すほどであった。劉淵の決起に従い、先鋒として次々と将を討ち取っていき、観と戦い、その計略にかかり戦死する。おそらくは、作品内最強の武将。

霊(りゅうれい)・・・劉封の子。北漢王朝を代表する勇猛な将。王弥とは義兄弟の関係。当初は冷静沈着な性格であったが、次第に荒々しい性格となるとともに、その強さは増していき、猛将ぞろいの軍の中でも武勇で最も恐れられる武将となる。で敵将の矢をくわえて止めたことがある。に、伯根がいる。

・姜発(きょうはつ)・・・姜維の子。軍師の一人となる。当初は、において漢王朝の血を引く人物を立てて独立しようと図ったがあきらめて、かなり後になって劉淵の元におもむく。戦術に特化した軍師。曜をよく諌め、聞かれない場合は、だいたい敗北する。に姜飛がいて、こちらは武勇に優れている。北滅亡後も、に仕える。

・関防(かんぼう)・・・関羽の孫。関興の子。知勇にすぐれた武将。史実には同名の人物は存在しないにも関わらずこの作品では関羽の子孫は大活躍する。武勇では霊・王弥に匹敵し、智謀優れ、戦いでは危うい場面もなく、戦場では大活躍した。死に方も劉淵の死後に安らかに病死といった関羽の子孫だけあってかなりの優遇を受けている。に関謹・関河・関山がいる。全て、義理堅く武勇すぐれるが、関山だけはかなりやんちゃな性格である。

曜(りゅうよう)・・・の人物参照

石勒(せきろく)・・・石の人物参照

他に三国志演義の人物の子孫として、

寧(ばねい)・・・馬謖の子
呼延晏(こえんあん)、呼延(こえんゆう)、呼延顥(こえんこう)・・・魏延の子
臣(こうしん)・命(こうめい)・・・黄忠の孫
(ろすい)・・・張翼の孫
ばらん)・・・馬鉄馬超)の孫
(ようりゅう)・・・楊儀の子
りけい)・・・李厳の孫 

などが登場する。馬超龐統の子孫はなぜか登場しない。 

【劉趙の人物】

初代皇帝・劉曜(りゅうよう)

劉備ひ孫滅亡の際に自害した劉諶の子。赤子の時に、劉淵に託される。成人して、霊や王弥に劣らぬ勇敢な武勇優れた武将に育ち、北漢王朝の軍を率いるようになる。堂々とした戦いを好んだが、気性がしく、自分に自信を持ちすぎて参謀の諌めを聞かないことも多かった。北滅亡後に、その後継王であるを建し、不仲であった石勒覇権を争うようになる。

・姜発・・・北の人物参照

・関心(かんしん)・・・関羽の孫。関索の子。知勇にすぐれた武将。関索そのものが架人物ではないかとツッコむのはいけない。軍にいた頃から曜を支え続ける。軍略にも優れている。鮑三娘であり、から授けられた投げ縄の技「錦套索(とうさく)の法」で敵将をとらえる。北に忠を尽くして、曜に仕える。 

【石趙の人物】

初代皇帝・石勒(せきろく)

趙雲の孫。統の子。元は、勒といい、初登場時は幼児であった。逃亡中に部下の桑(きゅうそう)とともに、賓たちとはぐれ、石氏の養子となり、石姓を名乗る。己の出自を知り、北漢王朝の元にはせ参じ、その傑出した武勇と優れた智謀、諌めを聞く聡明さから北漢王朝の軍を率いる。賓からもその英雄ぶりは認められる。次第に北から独立し、後に、石を建する。この石勒趙雲の孫という設定がこの小説の中でも最も理がある部分である。染・概・がいる。彼らは祖と同じように地味である。 

賓・・・北の人物参照

・孔萇(こうちょう)・・・孔融の孫。勇猛な武将。逃亡して生活していた。祖である曹氏に復讐を誓っている。穿叉(せんざんやしゃ)という怪物を退治したことがある。が悪く、その関係で関防たちと喧嘩になり、知り合うことになる。北に仕えた後、石勒にも仕える。 

【成】

創始者・李特(りとく)

流民を率いてに反乱を起こした流民の長。元々は関中にいたが、劉淵たちが起こした戦乱を逃れて、の地に流れてきた。の地で生活をしていたが、関中に帰ることを地方官に強制されて、攻撃まで受けたので反乱。連戦連勝を重ねたが、油断をして、大敗し、捕らえられて処刑された。

初代皇帝・李雄(りゆう)

特の子。成の初代皇帝の死後、降することに抵抗し、流民たちを率いて、軍を戦い勝利する。雄の元で、流民たちは連勝した。成都を奪って独立して、成王を名乗る。後に、皇帝に即位する。中国は大きな長い戦乱の地となったが、の地は平和を保てた。

三国志後伝年表

三国志後伝のあらすじは、wikipediaexit参照。ここでは年表と劉淵の軍により陽を落とすまでのな事件の詳細を解説する。 (が北関係、関係、がその他)

晋武帝(司馬炎)時代 

元年() 263年 に侵攻。滅亡する。

咸熙元年() 264年 司馬昭司馬懿の子)、死去する。(史実では翌年)

泰始元年() 265年 からの譲を受け、司馬炎司馬懿の孫・司馬昭の子)、皇帝に即位する((西)建)(司馬炎は後世では、『武帝』と呼ばれる)

泰始元年() 271年 安楽劉禅劉備の子・の二代皇帝)、死去する。

太康元年() 280年 の侵攻により、滅亡する。(

太康五年() 284年 司馬炎、大幅な軍縮を断行。

太康五年() 289年 司馬炎、死去する。司馬衷(司馬炎の子)、皇帝に即位する。(司馬衷は後世では、『恵帝』と呼ばれる) 

晋恵帝(司馬衷)時代前期 ※劉淵の決起と八王の乱序盤

 元康四年() 294年 劉淵、起兵し、南下しての関中を攻める。(劉淵の関中侵攻戦

元康五年() 295年 王・司馬倫司馬懿の子・司馬昭)に劉淵討伐を命じる。

元康六年() 296年 劉淵軍、軍を度々破るが、斉万年が戦死し、と講和する。 

劉淵の関中侵攻戦 

の元康四年(294)から元康六年(296)、劉淵劉備の孫)は漢王朝の復し、匈奴を率いてに侵攻する。劉淵の武将であった斉万年は南の関中に攻め込み、協者の郝元度(かくげんど)は北のを攻めこむ。の援軍により奪回されるが、関中では侯騄(かこうろく、夏侯惇の孫)や周処(周魴の子)を討ち取って州・涇陽を落とし、駿(かこうしゅん夏侯惇の孫)・王(司馬倫司馬懿第九子)・梁王(司馬肜、司馬懿の第八子)・観を打ち破る。しかし、郝元度・斉万年が戦死したため、劉淵と講和を結ぶことになる。この結果、劉淵は山西の左に本拠地を移し、匈奴の左賢王となる。

 元康六年() 296年 皇后賈南風晋王朝の実権を握る。(駿(ようしゅん)討伐) 

駿(ようしゅん)討伐 

の元康六年(296)に起きた、恵帝司馬衷、司馬懿ひ孫)の皇后賈南風(賈逵の孫、賈充)によるクーデター事件。賈南風は禁中の軍を揮する観を参謀とし、恵帝の楚王(司馬瑋)と一族の東安王(司馬繇)を味方につけ、政治を取り仕切っていた外戚の駿を排除した。駿の一族は皆殺しにされ、恵帝であった武帝司馬炎司馬懿の孫)の妃だった駿芷、ようし)も閉されたまま世を去る。賈皇后は一族の賈模(かぼ)の進言に従い、南王(司馬亮司馬懿の第四子)・衛(えいかん)・張華の三人に政治を委ねた。その後、南王と衛は政変により相継いで処刑され、張華と裴頠(はいぎ)が政治の中心に立つ。史実では291年の事件。八王の乱の最も初めの事件である。

 

八王

八王の乱」を起こした晋王朝の「王」の地位にあった人物の総称。全て司馬懿もしくは司馬懿兄弟の子孫にあたる。

具体的には、この八名のこと。 

① 南王・司馬亮(じょなんおう・しばりょう

司馬懿の第四子。武帝司馬炎)から見たら叔父にあたる。

② 楚王・司馬瑋(そおう・しばい) 

司馬懿ひ孫武帝司馬炎)の第五子にあたり、恵帝司馬衷)のにあたる。 

③ 王・司馬倫(ちょうおう・しばりん)

司馬懿第九子。武帝司馬炎)から見たら叔父にあたる。

④ 斉王・司馬冏(せいおう・しばけい)

司馬懿ひ孫武帝司馬炎)のである司馬攸(しばゆう)の子にあたる。

⑤ 長沙王・司馬乂(ちょうさおう・しばがい)

司馬懿ひ孫武帝司馬炎)の第六子にあたり、恵帝司馬衷)のにあたる。

⑥ 成都王・司馬穎(せいとおう・しばえい)

司馬懿ひ孫武帝司馬炎)の第十六子にあたり、恵帝司馬衷)のにあたる。

⑦ 河間王・司馬顒(かかんおう・しばぎょう)

司馬懿にあたる司馬孚の孫。 

⑧ 東海王・司馬越(とうかいおう・しばえつ)

司馬懿ひ孫武帝司馬炎)の子にあたり、恵帝司馬衷)のとなる。なお、史実では司馬懿にあたる司馬(しばき)の孫。

※ さらに、下の二人を八王に含める時もある。

○ 南王・司馬允(わいなんおう・しばいん) 

司馬懿ひ孫武帝司馬炎)の第十子にあたり、恵帝司馬衷)のにあたる。

○ 梁王・司馬肜(りょうおう・しばゆう)

司馬懿の第八子。武帝司馬炎)から見たら叔父にあたる。

 元康七年() 297年 皇太子司馬遹、皇后賈南風により謀殺される。

元康九年() 299年 王・司馬倫賈南風皇后位をする。(皇后討伐) 

〇賈皇后討伐 

の元康九年(299)、王(司馬倫)が参謀の孫秀の計略により賈南風を排除する。斉王(司馬冏司馬昭の孫)と恵帝である南王(司馬允)が王に協した。賈南風自殺を命じられ、政治を支えてきた張華と裴頠も巻き込まれて処刑された。

 

晋恵帝(司馬衷)時代中期 ※八王の乱中盤 

永康初年() 300年 成の開祖となる特、飢饉により、関中から益州に入る。

益州刺史・廞、の地においてから自立する。(廞(ちょうきん)政権) 

廞(ちょうきん)政権 

の永康初年(300)年から永元年(304)年に成都を中心に自立した政権。益州刺史の廞は賈南風の縁戚であった。賈南風王のクーデターで排除されると、不安になった廞は自立する。当初は姜発・姜飛の兄弟姜維の子)、流民を率いる特・兄弟といった人材に恵まれて陳総(ちんそう)らの軍に勝利する。その後、姜発・姜飛に見限られ、特のである庠(りしょう)を殺したために特が廞を殺す。は羅尚(らしょう、羅憲の甥)を廞の後任にあたる益州刺史として送り込んだ。史実では廞の死は301年。

 永寧元年() 301年   王・司馬倫恵帝皇帝位をする。(王政権) 

王政権 

賈南風を排除した後、王(司馬倫)と孫秀が政権を導した。の元康九年(299)から永寧元年(301)まで続く。王は協してくれた斉王と南王の排除を企てるが、南王は反発し、陽で王との戦にまで至る。南王は暗殺され、斉王も陽から許に逃れる。これにより王と孫秀による独裁政権となり、恵帝位されてしまう。位は位となり、王が摂政王の子が皇太子となった。史実では王は皇帝に即位している。 

永寧元年() 301年   斉王・司馬冏司馬昭の孫・司馬炎の甥)らの諸王が王を討伐する。恵帝皇帝に復する。(諸王の決起) 

〇諸王の決起 

の永寧元年(301)、各地にいた司馬氏の諸王王政権打倒のために挙兵する。この決起には、許に追われた斉王(司馬冏、しばけい、司馬攸の子)に加え、恵帝である成都王(司馬穎、しばえい)と長沙王(司馬乂、しばがい)、さらに河間王(司馬顒(しばぎょう)、司馬孚の孫)も参加した。諸王の勝利により王政権は滅び、王と孫秀の党は残らず処刑される。これより政権は斉王が担うこととなる。 

晋恵帝(司馬衷)時代後期 ※劉淵の侵攻と李雄の独立、八王の乱終盤 

元熙元年() 304年 劉淵に侵攻し、山西の陽を都とする。((北)建)(劉淵の山西・河北侵攻戦) 

劉淵の山西・河北侵攻戦 

の永元年(304)年、王政権の崩壊を知ると、左劉淵は再びに侵攻する。軍勢は破の勢いで県を攻め落とし、劉淵陽で即位して「北」王を建した。太子の聡(劉淵の子)を元帥とする北軍の侵攻はそれでも止むことはなかった。河北の要衝である鄴(ぎょう)さえ危うくなったは、北の討伐に本を入れざるを得なくなる。

 

劉淵即位時の役職リスト

劉淵:統攝王(とうせつかんてんおう)
呼延氏:皇后 
宣:左丞相→左賢王・大単・五部大総(だいそうじゅう)
諸葛:右丞相
義:
累:司空
歓:太尉
膺:
 
伯根:左大司馬
関防:右大司馬
霊・王弥:開冠軍大将
関謹・実:龍驤大将
臣・呼延晏:大将軍・護衛保駕使
染・呼延大将
:驃騎大将
敬・廖全:驍騎大将
概・命・王如・関河:建威将軍
孔萇・安・曹嶷:建武将軍
支雄・刁膺・喬晞・虎:揚武将軍
・樊栄・寧:揚威将軍
呼延顥・胡文盛:振威将軍
・王邇:振武将軍
関山・胡宓・宝:護軍都尉 
賓:軍師謀
崔遊・遊遠:御史大夫
聡:太子・大将軍・総督六軍:録尚書事・王・元帥
和:礼中書事 
陳元達:左相・参理政(宣の後、左相となる)
崔瑋・許遐:諮議大夫
・程遐:資政大夫
都:行軍都尉 
:左王(故人)
斉万年:隴西(故人) 

元年() 304年 特、成都廞を謀殺する。特、反乱を起こす。(特の反乱

二年() 305年 特、羅尚に敗れ、死す。流(特の)・雄(特の子)ら、反乱を継続し、羅尚に勝利する。流、死去する。

三年() 306年 雄、羅尚に勝利し、の地にして自立する。(成(成)建) 

特の反乱 

の永元年(304)年からの永三年(306)年にで起こった叛乱。廞を殺した特は羅尚の下で様子をうが、晋王朝の流民に関中に帰るよう強制する。流民は特を擁して叛乱を起こし、特の戦死後は子の雄が流民を引き継いで羅尚を敗死に追い込む。雄は中を支配して成を建した。史実では301年から309年まで続いた。 

元熙三年() 306年 北、河北のを奪い、下の軍を集める。

永嘉元年() 307年 成都王・司馬穎司馬炎の子・司馬衷(恵帝)の)、北聡と大会戦を行う。(大会戦

元熙五年() 308年 と北、和を行い、ともに軍を退ける。 

大会戦 

の永嘉元年(307)から永嘉二年(308)にと北が鄴(ぎょう)付近で行った総力戦を奪った北軍は二十数万に対し、成都王(司馬穎)を盟、陸機(陸遜の孫)を元帥とし、諸王・諸侯・異民族連合軍による討伐を企てた。北諸葛諸葛亮の孫)を派遣し、異民族の慕容廆(ぼようかい)、拓跋猗(たくばついろ)、洪(ほこう)、姚仲(ようよくちゅう)に背後を脅かさないよう説得する。 

諸葛の調略により異民族の協を欠いたであったが、七王と十四諸侯から成る二十一路の軍勢、十七万三千人の兵で北との決戦に臨む。当初は北の有利に進むが、兵に勝る軍が次第に北軍を追い詰め、北軍はに籠する。 

劣勢を知った劉淵は、曜(劉淵の一族)と石勒趙雲の孫)に各十万の軍勢を与えて陽から派遣する。曜と石勒の妨を破っての本軍と合流し、北軍と軍は五鹿墟(ごろくきょ)で再び決戦する。戦は北軍の優位に終わり、両軍は和してついに兵を退くことになる。

史実にはない架の大会戦。

 

の十四路諸侯】 

軍大会戦において、軍として参加し、北軍と戦った地方官の総称。各自、数万の軍勢を率いた。 史実において、時代は前後するが重要な役割を担った地方官の名が連ねられている。

具体的には、この十四名。 

① 荊州刺史・りゅうこう)
② 西刺史・軌(ちょうき)
③ 州惣官・王浚(おうしゅん
④ 揚州刺史・陳敏(ちんびん)
⑤ 幷州刺史・琨(りゅうこん)
⑥ 広州刺史・陶侃(とうかん)
⑦ 州刺史・苟晞(こうき)
⑧ 予州刺史・喬(りゅうきょう)
⑨ 楽陵太守・続(しょうぞく)
⑩ 滎陽太守・矩(りく)
⑪ 雍州刺史・沈(りゅうちん)
⑫ 順陽太守・(ちょうこう)
⑬ 武威太守・(ばりゅう
⑭ 南太守・応詹(おうせん)

永嘉三年() 309年 八王の乱により、しい内戦が繰り広げられる。(八王の乱終結) 

八王の乱終結 

の永嘉三年(309)から永嘉五年(311)に繰り広げられたの諸王による内乱。斉王(司馬冏)は長沙王(司馬乂)に殺され、長沙王は成都王(司馬穎)と河間王(司馬顒)に攻められ、東海王(司馬越、しばえつ)の裏切もあって敗死する。成都王と河間王の二人も東海王に敗れて殺されてしまう。東海王は恵帝を殺し、新たに恵帝にあたる懐司馬熾、司馬懿ひ孫)を位に迎えて自らの政権を固める。しかし、その後に東海王が病死して八王の乱は終結する。史実の八王の乱は広く、南王(司馬亮)・楚王(司馬瑋)・王(司馬倫)の死因となった事件や内乱を含む。また、五王による内乱は史実では永寧二年(302)から永嘉五年(311)のことであった。 

永嘉三年() 309年 北に侵攻する。(劉淵陽侵攻戦) 

恵帝死去し、司馬熾(司馬炎の子・司馬衷(恵帝)の)が皇帝として即位する。(司馬熾は後世では、『の懐』と呼ばれる) 

晋懐帝(司馬熾)時代 

永嘉四年() 310年 成(成)の雄、皇帝に即位する。

揚州刺史・陳敏、建業にて反乱を起こすが鎮圧される。

陽にまで侵攻する。

永嘉五年() 311年 北陽を落とし、懐を捕らえる。

劉淵、死去する。聡(劉淵の子)、北皇帝に即位する。 

劉淵陽侵攻戦 

の永嘉三年(309)から永嘉五年(311)に行われた北によるへの侵攻のこと。この戦で都である陽は陥落し、の懐は虜囚(りょしゅう)となるに至る。北の侵攻が始まっても八王の乱は止まず、北軍は勝利を重ねて陽を攻めた。堅固な陽による軍の抵抗しく、三度の攻撃で陽は陥落した。都を落として皇帝である懐を捕らえ、に大打撃を与えた北であったが、皇帝劉淵はそれより間もなく病死した。 

元年() 313年 司馬鄴(しばぎょう、司馬衷(恵帝)・司馬熾(懐)の甥、長安において皇帝に即位する。(司馬鄴は後世では、『の愍』と呼ばれる) 

晋愍帝(司馬鄴)時代 

三年() 313

二年() 314年 北曜(劉淵聡の族)、長安を占拠するが撤退する。

四年() 314年 の懐聡に殺される。

三年() 315年 曜、長安を陥落し、愍を捕らえる。(西滅亡

元年() 318年 司馬(しばえい、司馬懿ひ孫(実は牛金の子))、建業において皇帝に即位する。(、東の元) 

晋元帝(司馬睿)時代 

嘉三年() 318年 北聡、死去する。皇帝に即位する。

靳准(聡の皇后)、を殺する。北、滅亡する。

曜、号をめ、皇帝に即位する。((前)建

曜、石勒趙雲の孫)とともに、靳准を討伐する。

石勒皇帝に即位し、号をとする。((後)建

三国志後伝基本用語 

三国志後伝を読むためにできるだけ知っておいた方がいいが、実際は雰囲気でなんとなく分かる程度でいい用を示す。なお、三国志関係で、三国志演義ベースにした作品についても、ほぼ同じ意味なので、なんとなくでしか分かっていなかった人は読んでみるのもいいかも。 

皇帝・・・王を支配する人物。からの命を受けて下を支配することを命じられた人物という理念の元に王を統治している。そのため、「天子」とも呼ばれる。

皇族・・・皇帝血縁がつながる一族。

皇后・・・皇帝の妻のうち、最も地位の高い女性皇后が子を持つ場合、側室の子より優先的に太子(次期皇帝補者)として選ばれる。

王 ・・・自分の領地を持ち、皇帝の次に高い地位にある人物。皇帝の一族のうち、地位の高いものが任じられる。「」は王の次に高い地位を持つ人物にあたる。

匈奴・・・の北の原に住む騎民族中国前漢であった時代は強い勢いを持っていた。中国を統一していたころの皇帝一族と婚姻関係にあったこともある。

丞相・・・皇帝を補佐する政治の最高責任者。複数いる場合もある。宰相という名称で呼ばれることもあるが、役割はほぼ同じである。

元帥・・・国家における討伐軍の最高官。正式な官職ではなく、役割を示す。史実上の言葉ではなく、演義小説における用として使われる。

太子・・・皇太子とも呼ばれる。皇帝子供のうち、次期皇帝となる人物。次期皇帝となる場合は、皇太と呼ばれる。

後宮・・・皇后が住む宮廷の一皇帝の側室や世話にあたる女官、宦官も住んでいる。基本的に皇帝以外の男性の往来は認められない。また、自由な出入りも禁じられている。

譲・・・皇帝が、自分の一族ではない実のある臣下に皇帝の位を譲り渡すこと。実際は臣下の方から皇帝に強要する形で行うことが多い。

軍師・・・歴史上にある官職・役職ではなく、君戦略・戦術・外交・謀略を補佐する参謀の中で、特に君の信頼を得てその中心となる人物。以降は謀(ぼうしゅ)とよばれることもある。内政や内部調整に関する参謀は軍師や謀とは呼ばれない。

長史(ちょうし)・・・王地方官を補佐する官僚や役人の中でトップに立つ人物。上記の「軍師」的な役割や内政部門の責任者としての役割を果たすことが多い。

司馬・・・王地方官を補佐する官僚や役人の中での軍事関係においてトップに立つ人物。軍を揮する役割を代行することや、軍の揮を補佐する役割を果たすことが多い。

参軍・・・王地方官を補佐する官僚や役人の中で高位にいる人物。上記の「軍師」的な役割やその補佐の役割を果たすことが多い。

刺史・・・王地方にあたる州・・県のうち、最も大きい州の長官。を統治する太守を束ねる役割を果たし、戦時にはその上位に立つことが多い。

太守・・・王地方にあたる州・・県のうち、の長官。行政全般を管轄する官職で、多くは軍権も兼ねる。軍権を預かる都尉が配下にいる時もある。

・・・王地方にあたる州・・県のうち、一番小さい県の長官。県の行政全般を管轄する官職にあたる。配下に行政の補佐にあたる県警察権を預かる県尉がいる。

大将・・・軍事の実際の戦闘にあたって、兵の揮を行う役割を果たす。武将の中でも地位が高い人物。正式な官職ではなく、役割を示す。史実上の言葉ではなく、演義小説における用として使われる。

牙将・副将・偏将・裨・・・上記の「大将」の下にあって、大将の補佐を行う人物。武将と呼ばれたりもする。「副将」は全軍の副将の意味と、その武将の立場という両方の意味で使い分けられる。明確な規定はないが、牙将>副将>偏将>裨の順で上位に来る。正式な官職ではなく、役割を示す。史実上の言葉ではなく、演義小説における用として使われる。

万夫不当・・・一万人の男でもかなわないほどの武勇を有した人物の意味。

関連リンク

三国志後伝は、出版ベースでは漢文以外の翻訳は存在しなかったが、ネット上の「カクヨムサイトにおいてフリーで現代翻訳を読むことができる。

最初から順番に読むよりも、適当に面そうなところをクリックして、姓からの人物の子孫か推測しながら、バラバラに読むことをおすすめする。

三国志以降の時代を詳しく知りたい場合、書や資治通鑑やその翻訳をいきなり読むよりは、一部でも三国志後伝を先に読んでいた方が頭に入りやすい。

続三国志演義─通俗續三國志─exit 

続三国志演義II─通俗續後三國志前編─exit

続三国志演義III─通俗續後三國志後編─exit

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三国志後伝

23 ななしのよっしん
2020/07/05(日) 12:12:59 ID: I6sDsCZ2J5
また、EkYfx3lq6Lさんが削除した記事を全には消さずに、こちらの記事に移す努をした手間に対しては、配慮する余地があると思ったからです。

三国志後伝に関する「ほんわかレス」でないコメントをして私に言いたいなら、当初のコメントを書いた人たちも見ている可性があり巻き込むから、お互いにtwitterアカウントがある以上、そこで私に直接、伝えてください。あそこでは「ほんわかレス」でないリプライも認められています。

それでも私の言い分に不満があるのなら、ニコニコ大百科には、「ニコニコ大百科:掲示板レス削除依頼」や「ニコニコ大百科:規約違反での編集権停止申請」という場所があるので、お互いに依頼や申請をして白黒つけたらどうでしょうか? 運営がどのように判断するか、私も興味があります。EkYfx3lq6Lさんのレスややり方が運営に問題があると判断された時は私の今回の対処についても考え直します。 

とにかく、この記事がどうでもいいなら、私の判断でこの記事はいったん、EkYfx3lq6Lさんが加えたものは全て落としておきます。
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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24 ななしのよっしん
2020/07/06(月) 00:48:01 ID: I6sDsCZ2J5
当該記事に関しては、私の意見はまとまりましたので、編集履歴を調べた上で、こちらで結論づいたことを、EkYfx3lq6Lさんのユーザー記事にお伝えさせていただいています。

了承をいただければ、速やかに対処したいと考えています。
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25 ななしのよっしん
2020/07/06(月) 18:31:13 ID: EkYfx3lq6L
つっこみどころ多すぎてなにがなんだかなあ

というかまず、このスレで一番ほんわかしてないの、どう見てもI6sDsCZ2J5さんだよ
ほんわかレスに拘るなら、まず自分がほんわかレスしたほうがいいと思うよ
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26 ななしのよっしん
2020/07/07(火) 07:11:44 ID: EkYfx3lq6L
おっとと、本題の方にはちゃんと返答しておくべきだった。
返事がちょっと遅れてごめんなさい。

はい。私が加筆した部分は全部削除でも良いと思います。もしくは差し戻しでも良いでしょう。
それでたぶんお互い同意になることだ思います。
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27 ななしのよっしん
2020/07/08(水) 05:13:31 ID: I6sDsCZ2J5
そうですね。>>25だけ見た時は、そういったレスはご自身のユーザー記事ですればいいのにと思い、また、肝心な回答はなかったので、こういった事態を楽しんでいるだけのただの愉快犯かと本気で疑いました。

それでは、記事をもどしたいと考えています。

EkYfx3lq6Lさんにお聞きしたいことがあるかもしれません。その時は、EkYfx3lq6Lさんのユーザー記事でお聞きしますので、ここではなく、ユーザー記事での対応をお願いします。
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28 ななしのよっしん
2020/07/08(水) 05:31:25 ID: I6sDsCZ2J5
同意を受けましたので、内容を元にもどしました。

三国志後伝三国志の各人物への書き込みは、「ゲーム小説にいれればいい」のか、「論考や文章の量が問題」なのか、「関連項目以外は全てダメ」なのか、同じ人物でも(段々と厳しい方に)意見が変わっているように思え、「なぜ、ダメなのかの根本理解できない」こととは別に、良く分からないままであると感じていることは申し添えます。
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29 ななしのよっしん
2020/07/08(水) 07:23:48 ID: ZgGwBEs7rK
関羽の記事に水滸伝の関勝について記述されていないというのが、三国志後伝の宣伝がしたくて個別記事に書き込んだ事が視野の狭さを感じて嫌がる人が出るんじゃないかなと思う。

あと韓遂を例に出すのはどうかと思う。
三国志の記事全体の中で数少ない出来の悪い記事を引き合いに出すってのも、偏った意図を感じて嫌ってのもでてくるだろうね。

MUGENみたく元ネタには手を出さず自重するを底してる界もあるしね。
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30 ななしのよっしん
2020/07/08(水) 22:53:30 ID: I6sDsCZ2J5
>>29
なにか誤解があるようだけど、元々、関羽の項に「関羽の子孫」として、水滸伝の関勝の記述と『新唐書』の関播の記述をいれたのは私で、それを解体されて、今の状態になっているだけだよ。履歴を見れば分かる。そういった知識で三国志後伝が特に多かっただけ。

隋唐演義の関大についても書いていたのに、三国志後伝の記述と一緒に消されてしまっている。水滸伝はいいのに、知名度だけで差をつけるそういうところも納得がいかない理由。

そういう私を悪く見る偏見が醸成されているのだとしたら、やはり、放置しない方がいいかもしれない。

削除の理由が恣意的で、再提案も認められないなら、この理屈で書にある子孫や『話』も落とすとなりかねない。
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31 ななしのよっしん
2020/07/11(土) 22:01:13 ID: I6sDsCZ2J5
色々と考えたが、しばらくは三国志後伝関係はこの項に手をいれるだけにして、再開する時は、劉淵たち五胡か八王の乱人物に書き加えて、はじめはコメントで断ることにしようと思う。

三国志人物を変するとしたら、子孫は正史三国志書のみの記述にして、コメントで断って様子見かな。
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32 ななしのよっしん
2021/05/07(金) 01:05:52 ID: zJrACpEgGZ
羅尚に呉懿張翼の子孫とかは仲間に入れてもらえなかったのか
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