ニットエイトとは、1964年生まれの日本の競走馬である。栃栗毛の牡馬。
「見た目が派手な競走馬は大成しない」というジンクスが広く信じられていた時代に栃栗毛の毛色に大流星で白く染まった顔と、父から受け継いでしまった恐ろしい気性難を併せ持ち、当時のファンから「白面の荒法師」と呼ばれた競走馬。
主な勝ち鞍
1967年:菊花賞(八大競走)
1968年:天皇賞(秋)(八大競走)
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
概要
父ガーサントは仏2000ギニー、フォレ賞、ガネー賞など14戦8勝。アイルランドで種牡馬入りしていたところを社台総帥吉田善哉氏に購入され日本に輸入された。ノーザンテーストやサンデーサイレンスなど多くの大種牡馬を導入した社台グループ初期の外国産種牡馬である。また産駒には例によって気性難が多かったことでも知られた。
母父シーマーは戦後直後の1948年に天皇賞(春)を勝利し、種牡馬としてもダイナナホウシユウ、タカオーの2頭の天皇賞馬を輩出する大成功を収めていた。
1964年4月10日に豊浦町の飯原農場で誕生。飯原農場の創業者飯原盛作は「父方を遡れば3頭しか行き着かないサラブレッドに血統の良し悪しは関係無い」というなかなか極端な思想を持ち、血統や馬格よりもどういったトレーニングを施すかを優先して馬を生産する人物だった。
そうして生まれてきた仔馬と言えば、生まれてすぐの頃から慢性の下痢の症状を抱えていつも尻尾を汚していた為尻尾を切り落とされ、当時大成しないというジンクスがあった大きな流星を持つなど見栄えが悪く、2歳の夏に出されたセリでは全く声が掛からずに売れ残ってしまった。
最終的には3歳春に当時オークス馬ヒロイチを管理して頭角を現していた矢倉玉男調教師に引き取られることになり、太田和芳郎オーナーの所有となった後「ニツトエイト」と名付けられた。ツが大文字なのは当時中央競馬では拗音や促音が使えなかったためで、読みはニットエイトである。3歳になったニツトエイトは事前の約束通り中山競馬場に厩舎を構える矢倉玉男調教師に預けられた。
現役時代
1966年12月の新馬戦で大和田稔騎手を鞍上にデビューし勝利したものの、その後は6戦して最高3着までと苦戦。同厩舎に所属し青毛というこちらも目立つ容姿を持つリユウズキが皐月賞を勝利して早くから世代の中で頭角を現していたのとは対照的であった。
結局ニツトエイトが2勝目を挙げたのは4歳の5月、日本ダービーの前日だった。陣営はダービーには間に合わないと判断してからはじっくり育てる方針を立てていたようで、7月までに2戦して1勝を挙げるとリユウズキと共に夏の函館に遠征。リユウズキが函館記念を勝っている裏でオープン戦に出走し、3戦して1勝。しかしながら勝ったオープン戦には先輩ダービー馬キーストンが出走しており、しかもレコード勝ちだったことから秋までの更なる成長に期待が持てる結果だった。
ニツトエイトは9月を休養に充て、菊花賞に挑戦するため10月1日のセントライト記念から復帰。初めての重賞出走となった。ここでニツトエイトはレコードで勝利したモンタサンを半馬身まで追い詰め夏の函館で見せた走りが間違いではないことを見せたが、続けて出走したハリウッドターフクラブ賞(現京都大賞典)では5着と精彩を欠く走りで菊花賞を前に人気を落としていた。
1967年の菊花賞は大本命のダービー馬アサデンコウが骨折により戦線離脱。皐月賞馬リユウズキはダービー5着の成績で距離不安があるのではと思われて6.9倍の2番人気となり、1番人気は日本短波賞勝ち馬ムネヒサが6.8倍の僅差で推された[1]。直前には社台グループの期待馬フイニイなど3頭が出走取り消しとなるなど波乱含みとなり、18頭立てで7番人気までが20倍を切る混戦模様となった。
そんな中でもニツトエイトは前走の敗北が響いたか32.5倍の9番人気と完全に伏兵扱いで、さして注目されてはいなかった。前日の追いきりでは共に菊花賞に挑むリユウズキと追切をしたのだが、ニツトエイトはリユウズキに7馬身も差を付けられるなどしていたという。しかしそんな中只一人鞍上を務める伊藤竹男騎手はニツトエイトの状態が今までと何か違うことを察したのか、太田オーナーに「明日は勝ちますから、是非来て下さい」と電話を掛け、自信満々で菊花賞へ向かっていた。
レース本番ではオークス馬ヤマピツトが逃げを打ち、アラジン、アトラスなどが先団を形成、リユウズキは中団で前を行く3番人気サトヒカルをマークし、更にムネヒサがリユウズキをマークして2週目に入った。向こう正面でアトラスがヤマピツトに仕掛けるとサトヒカルがこれを追いかけ、更にリユウズキが最終コーナーで並びかけ実況はサトヒカルとリユウズキの一騎打ち!と叫んだ。しかし最終直線で競り合う2頭の外から1頭脚色の違う馬が凄まじい勢いで突っ込んで来ると瞬く前にリユウズキを交わして突き抜け勝利。そのあまりの速さ故か実況がニツトエイトに気が付いてレースで初めて名を呼んだのは先頭のリユウズキを捉える直前であった。ニツトエイトは重賞初勝利をクラシック三冠の菊花賞で達成し、矢倉厩舎は「大成できない」というジンクスを派手な見た目故に敬遠されていた中引き取った競走馬で破り、この年の皐月賞と菊花賞を共に管理馬で勝利している。菊花賞後は当時年末の中山で行われた毎日王冠に出走したものの反動でもあったのか10着に惨敗し、4歳時はこれが最後になった。
5歳時の1968年は中央競馬で遂に馬名に拗音や促音が解禁され、この年からリュウズキを始めとする同期達と共に馬名の表記が読みと同じ「ニットエイト」になった。レースの始動戦は2月の東京新聞杯からだったが、16頭立て8着。次走のオープン戦で5着。中山記念で4着と菊花賞馬としてはどうにもイマイチなレース振りで、大目標の天皇賞(春)や宝塚記念は見送り、5月のステイヤーズステークスへ向かい、3馬身差を付けられたものの同期のニウオンワードの2着に入り徐々に調子が上向き始めた。その後は前年と同じく夏の北海道へ遠征しオープン戦を連戦。函館の初戦を制すると10月の東京開催まで掲示板に入り好調を維持していた。しかし目標の天皇賞(秋)の前哨戦として目黒記念(秋)に出走すると突然調子を崩し、函館記念を勝ってきた僚馬リュウズキが3着に入る横で7着に沈んだ。
ニットエイトはこの敗北が響いたのか天皇賞(秋)では6番人気まで人気を下げた。1番人気は尾形厩舎が送り出す同期フイニイ。2番人気は前走目黒記念でフイニイに次ぐ3着のリュウズキとなった。
本番では外枠からヤマピットが菊花賞と同じく大逃げを仕掛けた。ヤマピットは向こう正面で10馬身以上のリードを作り、これを受けてリュウズキが捕まえる為に早めに動きだし、後方からフイニイがそれを追いかけた。ヤマピットは直線入り口まで持ちこたえたが後続につかまり、先行していたメジロタイヨウや後方から伸びるフイニイが競り合いとなった。先に動いていたリュウズキは脚色が悪く馬群から抜け出せずにいたが、その外からニットエイトが菊花賞で見せた凄まじい末脚を再び繰り出し、先頭を走るフイニイをあっさり競り落とすと1と4分の1馬身差のレコードタイムで優勝した。
ニットエイトは函館のオープン戦以来の本年2勝目。重賞勝ちは菊花賞以来2勝目で、後に矢倉調教師は「どうにもよくわからないが、ニットエイトはリュウズキと一緒に出すと走る気になるらしい」と首を傾げながら話している。ニットエイトはこの勝利で5歳シーズンを切り上げたが、リュウズキは年末の有馬記念へ向かい、ニットエイトと同じ6番人気で最終コーナーで先頭に立つと後続を完封して優勝している。
6歳時の1969年は休養を挟んで4月のオープン戦で復帰したが、どうにも年を跨いだり休養を挟むとやる気が無くなるのかメジロタイヨウの6着に敗れた。しかしそこからは持ち直し、5月のアルゼンチンジョッキークラブカップではメジロタイヨウ、スピードシンボリに次ぐ3着。日本経済賞では同じく3着だったものの前走で敗れたメジロタイヨウに先着した。7月には毎年恒例となった函館へ遠征し、初戦の巴賞をメジロアサマを破って勝利。今まではオープン戦ばかりだった為に初挑戦となった函館記念でも3着とまずまずの成績で終えた。
夏の休養を挟んだ後は天皇賞の勝ち抜けにより唯一残った大タイトルの有馬記念を目指し10月のオールカマーから復帰。休養を挟んだ今回も走る気が無かったのか7着だったものの、次走であるダービー卿チャレンジトロフィーでは世界的名手レスター・ピゴットを乗せることになり、更に同期の天皇賞馬ヒカルタカイと初対決。勝ち馬からは3馬身ほど離されたがヒカルタカイには先着した。
その後ニットエイトはオープン戦を叩いて大目標の有馬記念へ出走。人気投票1位の一番人気前年皐月賞馬のマーチスの他もはや腐れ縁と化した同期フイニイやメジロタイヨウ。連覇を目指す同厩舎の僚馬リュウズキ。4度目の挑戦で初優勝を目指す海外帰りのスピードシンボリ、クラシック組からはダービー馬ダイシンボルガードと菊花賞馬アカネテンリュウが参戦してきた。ニットエイトはいつものごとく気性からくるムラっ気からメンツが揃う大レースでは人気を下げたが、今回はファン達も菊花賞や天皇賞を人気薄で勝利したことを思い出したのか5番人気に踏みとどまり、結果もそのまま5着。珍しく人気通りの着順で終え、これを最後に引退した。通算成績36戦8勝。うち重賞2勝。勝った重賞はどちらも八大競走で、どちらも低人気からの激走であった。
引退後
引退後は種牡馬入りし、ちょうど供用開始の1970年のリーディングサイアーとなった父ガーサントの後継として期待されたものの、そもそも種牡馬入りの地が九州の宮崎で、しかも父譲りの気性の悪さも足を引っ張ることになり中々活躍馬が出ず、場所を転々とした末故郷の胆振の牧場に移動。1976年に肺炎により世を去った。13歳没。
現役時代はジンクスによる売れ残りや気性難からくる数々の奇行など話題に事欠かず、やる気もあったりなかったりで乗る側も見る側も中々苦労する日々であったが、ここ一番で見せる爆発したように飛んでくる末脚は見た人々に大きな衝撃を残した。さすがに現代の競馬では危なっかしくて付き合いきれない、昭和の昔だからこそ生まれた名馬かもしれない。
血統表
*ガーサント Guresant 1949 鹿毛 |
Bubbles 1925 栗毛 |
La Farina | Sans Souci |
Malatesta | |||
Spring Cleaning | Neil Gow | ||
Spring Night | |||
Montagnana 1937 鹿毛 |
Brantome | Blandford | |
Vitamine | |||
Mauretania | Tetratema | ||
Lady Maureen | |||
トモサン 1957 鹿毛 FNo.4-d |
シーマー 1944 黒鹿毛 |
*セフト | Tetratema |
Voleuse | |||
秀調 | 大鵬 | ||
英楽 | |||
カミトモ 1951 鹿毛 |
シマタカ | *プリメロ | |
第参マンナ | |||
シヨウゲツ | 月友 | ||
第四パシフイツク | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Tetratema 4×4(12.50%)、Blandford 4×5(9.38%)、シアンモア 5×5(6.25%)
- 五代母パシフイツク(競走名クヰンフロラー)は1926年の帝室御賞典(福島)勝ち馬。直系子孫にはニットエイトの他サクライワイ、レガシーワールド、オーバーレインボー、ヒガシウィルウィンなどがいる。
- 牝系を遡ると小岩井農場の基礎輸入牝馬プロポンチスにたどり着き、同牝系にはアスコツト、グランドマーチス、ハクタイセイ、アイネスフウジン、トーホウエンペラーなど多くの活躍馬がいる。
関連動画
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関連項目
脚注
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